三井本館は1929年に三井財閥の本部として建てられました。まるで宮殿のような素晴らしい建物です。 旧三井本館は日本の鉄筋建築の先駆者である横河民輔が設計を手掛け、1902年に完成しましたが、関東大震災で前回こそ免れたものの、内部が大きな被害を受けてしまいました。 そこで、当時の三井社長の三井八郎右衛門は「震災の2倍のものが来ても壊れないものを作るべし」と新社屋の着工を命じました。三井理事長の團琢磨は「①壮麗(grandeur)、②品位(dignity)、③簡素(simplicity)」の3つの具体的なデザインポリシーを掲げ、米国のトローブリッジ&リヴィングストン事務所が設計、ジェームズ・スチュワート社が施工をする形で1929年に竣工しました。 完成した建物はアメリカンボザールと呼ばれ、新古典主義様式による鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階(現在は7階)で地下2階という当時では丸ノ内ビルヂングに次ぐ大きなビルでした。 この三井本館には三井合名、三井物産、三井銀行、三井鉱山、三井信託の5社が本社を置きました。三井財閥の中枢だったのです。 昭和金融恐慌の時、三井がドルを買い占めたことを批判され、1932年、理事長の團琢磨が本館入口で血盟団の菱沼五郎から狙撃されて死亡する血盟団事件が発生しています。 2003年、三井不動産は日本橋の再開発に取り組みましたが、三井本館は容積率制度導入以前から存在している建物なので、現在の法令に照らすと既存不適格ということになってしまいました。そのまま建て替えた場合も容積が小さくなるという問題が発生してしまいました。そのため、各方面と協議をした結果、東京都が新たに重要文化財特別型特定街区を創設し、三井本館がその指定を受けることになりました。 現在の三井本館は三井住友銀行と三井住友信託銀行が現在も営業をしており、一部が美術館になっています。 丸の内の明治生命館と同じく、日本橋にも激動の歴史を見守り続けた建物が今なお...
Read more茶道具のコレクションが素晴らしいです。また、雛人形の展示も華やかで良いです。
旧財閥三井家が所蔵する、膨大な社会経済史料の保存のため、1965年(昭和40年)、三井グループ各社の資金提供によって財団法人三井文庫が設立された。その後1985年(昭和60年)に至り、三井家に伝来する貴重な文化財を散逸させず、保存公開するための施設として「三井文庫別館」が開設された。
三井家は、本家にあたる総領家を含め11家に分かれているが、三井記念美術館には、おもに北家(総領家)、新町家、室町家伝来の文化財が収蔵されている。
北家(総領家)伝来品は、三井文庫別館開設時に11代当主・旧男爵の三井八郎右衛門(三井高公、1895-1992)から寄贈されたものである。円山応挙が三井家のために描いた『雪松図』、国宝2件を含む刀剣類、藤原定家の日記の一部である「熊野御幸記」、金剛右京家伝来の能面類などが著名である。
新町家伝来品は、同家10代当主・旧男爵の三井高遂(みついたかなる、1896-1986)から寄贈されたもので、火葬墓から出土した墓誌としては日本最古の年紀をもつ「船氏王後墓誌」(ふなしおうごぼし)が著名である。
室町家伝来品は1993年(平成5年)に寄贈されたもので、日本製の陶磁器としては数少ない国宝のひとつである、志野茶碗「卯花墻」(うの...
Read more横河民輔が設計を手掛け、1902年(明治35年)に竣工した旧三井本館は関東大震災で建物は地震による被害は皆無だったが、屋根や窓廻りからの類焼で建物内部が大きな被害を受けた[1]。このため、三井合名は仮本社にて新社屋建設構想に入り、社長の三井八郎右衛門高棟は、「震災の二倍のものが来ても壊れないものを作るべし」と命じ、それを受け理事長の團琢磨は「壮麗(grandeur)」「品位(dignity)」「簡素(simplicity)」の三つの具体的デザインポリシーを掲げ、これらの思想を具現化するために、米国のトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所を設計、ジェームズ・スチュワート社を施工に選定し、工事が着手、1929年(昭和4年)3月23日に竣工、6月15日に開館した。総事業費は2,131万円(当時の一般的な事務所ビルの約10倍...
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