入館料がある分、普段は人が少なく上野公園の中では少ないゆっくりできる場所です。展示物は多くはないのですが、建築自体が目玉なのでそれは問題なく、問題はこの建築がここに残された経緯と、それが展示から巧妙に隠されていることです。 1970年代頃から東京藝術大学が、学生数の増加にも関わらず明治時代の建築ばかりで手狭になった上野のキャンパスにこの奏楽堂に代わる新たな奏楽堂を建てようとした時に、一部教官が反発、キャンパスの中に残すことに固執した反対運動を起こしたのが始まりでした。それも国会議員などに働きかけ、大学を超えた政治問題にしてしまったものですから、せっかく決定していた愛知県犬山市の明治村への移築計画が白紙になってしまいました。最終的には台東区長が現在の上野公園内への移築保存を提案して現在に至り、反対派はこのことを東京新聞の出版で素晴らしい美談かのように記して文献に残しています。 しかし、この建築を上野の地で保存することにこだわった結果、東京藝術大学の姿は歪なものとなり、それは現在にも影響を及ぼしています。新たなキャンパスを取得せざるを得なくなり、大学は慌ててこれも政治家に相談した結果、その政治家の選挙区だった茨城県取手市のキャンパスが急遽計画されます。またその建設の費用を捻出するためとして、元々お茶の水にあった音楽学部附属音楽高校のキャンパスは突如民間に売却されると発表、移転を余儀なくされます。そして同じく茨城県への移転や体育館を音楽用の校舎にするという無茶な案を、本来建築の保存などと何も関係のないはずの高校教員、父兄で議論することを強いられました。上野のキャンパスにはもう新たな施設を設置する余地が存在しない、大学は反対派にそう声明を出してしまっていたからです。結局は学生、体育の教官の反対もあり、この音楽高校は上野のキャンパスに新たな校舎を伴い移転しますが、その分体育の授業やサークル活動に使うはずの運動場の面積は小さくなり、誰が見ても体育教育には使えないであろう、普段は多くが駐車場として使われる未舗装の空間をグラウンドだと言い張っています。とはいえ取手のキャンパスにその分の体育館にプール、グラウンド、テニスコートが作られるはずでしたが、開設以来本格的に着手されることはなく35年が経った今も草が生い茂る空き地のままになっています。どころか、民主党政権下に会計検査院によってその大半が雑木林のまま放置されていると指摘があったときには、その計画施設を建てるどころか慌ててその運動場の用地にプレハブを建てて、美術家のアトリエ村を作っていくと言い訳をしました。そのアトリエ村も結局バスケットボールコートを潰してプレハブ一棟が建てられただけで、取手キャンパスの大半が放置されている現状は今も変わりません。 そしてその間も、上野のキャンパスは建物の密集化が進みました。予算や寄付を獲得するたびに新たな建物を隙間にねじ込む、という考えが続いています。建築の部門のある大学ながら東京大学など他の都心のキャンパスと異なり高層化ができなかったのは、上野公園付近の景観条例により高さ制限があるためです。上野キャンパスの最新の国際交流棟はこれを回避するため、わざわざ地面を掘り下げて階数を稼いだことで、2022年に作られたとは思えないほどバリアフリーからは程遠い段差だらけの建物になりました。元々は奏楽堂の移築保存によって生じたあらゆる議論のエネルギーを別の方向に活かしていれば、ここまでひどい現状には至らなかったと言えましょう。 では上野での保存にこだわった反対派が悪かったのでしょうか。自分は彼らだけではないと思います。上記の経緯で取手のキャンパスを取得したにも関わらず「取手は遠い」などと言って藝大の施設の拡充は上野のキャンパスが結局中心となり、そもそも奏楽堂問題を生んだ音楽学部に至っては一切移転をしませんでした。一方上野キャンパスは「上野の森」の面影はどこへやら、ぎちぎちに押し込めたようなビル群、違法建築だらけになってしまいました。確かに足立区千住や神奈川県横浜市に新たなキャンパスは生まれましたが、いずれも借地で、土地を取得しておらず、横浜に至っては専攻によって校舎が分散しており、最近では撤退論まで出ています。取手を放置し、他のキャンパスは土地すら買わない借地契約、一方で手狭だったはずの上野キャンパスに、国からの予算枠がつき次第引き続き新たな施設を増やし続ける。上野に固執しているのは結局大学当局も同じなのです。どころか、2023年頃に電気代が捻出できないという理由でピアノの売却までしていると報道された(それも発端は学生のSNS発信からです)東京藝術大学は、その報道が出た後に上野の桜木にある日展の会館を5億円以上で購入しています。そう、これは借りるのではなく買い上げているのです。上野以外にキャンパスを作っておいて、それでも上野へのこだわりを捨てきれないがゆえに、大学内で混乱と分断を引き起こす。そして、教育に必要な予算、設備、リソースを削りながら、そして他にも施設を建てられるキャンパスがありながら、メインキャンパスのすぐそばに新たに拠点を買う。本質を見失っています。 …と、少し言い過ぎているかもしれませんが、ここで挙げたような部分の歴史は、この旧奏楽堂を巡る記述からは全く抜けています(ついでに言えば、音楽の学生だけでなく美術学部もこの建物を使っていた事実など)。またこうなってくると、果たしてこの上野公園に残すことが完全に「美談」「英断」だったのかも怪しく思えてきます。 大学当局と反対派、どちらにも非があります。芸術の教育研究の機関であるはずなのに、その構成員は歴史修正主義とエリート主義、そして結局は政治家に頼るという発想しかなかった、いや今もそれが続いているということを表す一つの象徴が、この旧奏楽堂なのです。 現在、この旧奏楽堂は明るく綺麗に保たれ、スタッフもとても親切、流れる音楽のしらべも美しいだけに、過去を知っていると、皮肉にもその影がかえ...
Read more正門を入って右手、前庭には明治時代を代表する作曲家で東京音楽学校卒業生でもある滝廉太郎(1879~1903)の銅像が立ちます。銅像の作者は彫刻家朝倉文夫で、滝と同じ大分県の竹田高等小学校に通いました。朝倉は東京美術学校を卒業しましたが、東京音楽学校と東京美術学校は1949年の新制東京芸術大学発足とともに包括されました。という訳で縁の深い二人ではあります。 「荒城の月」「鳩ぽっぽ」「花」などの今に歌い継がれる数々の曲を作曲した滝は西洋の作曲法を用いて作品を創作した日本最初期の作曲家といわれます。21歳の時にピアノと作曲の研究のためドイツのライプツィヒ王立音楽院に留学します。 もともと3年の予定が異国で肺結核を患い1年数カ月で切り上げて日本に戻ります。そして23歳という若さでこの世を去りました。 奏楽堂以外にも、同じ銅像が大分市の滝廉太郎終焉の...
Read more上野公園内にひっそりと佇む「奏樂堂」は、明治時代に建てられた歴史的な音楽ホールで、日本の音楽教育の原点ともいえる場所です。木造の温もりを感じる建築と、美しいステンドグラス、そして柔らかな音の響きが調和し、まるでタイムスリップしたかのような感覚に。クラシック音楽のコンサートやイベントが行われており、音楽好きにはたまらない空間です。見学も可能で、展示を通して東京芸術大学や日本の音楽史に触れることができます。静かで落ち着いた雰囲気の中、心を整えながら歴史と芸術を体感できる貴重なスポット。上野公園の散策ついでに、ぜひ立ち寄って...
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