現在ではコンクリートの小さな橋ですが、794年に架けられ、平安期は土御門橋と呼ばれていました。元々は堀川は大きな川でした。平安京造営の際、堀川小路に沿う運河としたのが堀川です。原初の平安宮大内裏から延びる中央の都大路であった朱雀大路を挟み、対象の位置にあったのが紙屋川でした。この世とあの世の不思議な伝説に彩られた歴史ある橋です。まず、有名なのが(安倍晴明は(妻が式神を怖がるので)式神を入れた箱をこの橋の下に埋め、用のある時は呼び出し使役していた、という話。そして、これも平安中期。仏教説話集・撰集抄によると、三善清行という公卿であった学者の葬送がここ一条戻り橋を通った時、その息子の僧浄蔵(調伏力あり)が修行先の熊野から駆け付け祈ったところ、雷鳴と共に父が一時的に蘇生し、親子で抱き合ったという伝説があります。そして、もう一つ。源氏の棟梁源頼光の家来である四天王の一、源綱が鬼女の腕を斬ったとの有名な伝承があります。源頼光は、自身は武勇はさほどでしたが、朝廷工作に長け、非常に世渡りの上手いタイプでした。例えば、関白藤原道長が新居を建てると、すかさず中の調度一式(家財道具)をプレゼントし、覚えがめでたくなるといったいろいろと機転の利く人物でした。そして、大江山の酒呑童子など地方の賊を朝廷が討伐するときは、武勇に優れた4人の家来(渡辺綱を筆頭とする四天王)を派遣し、手柄を立てるという形で出世し、摂津源氏の地盤を盤石にした人物です。(摂津源氏は都から馬で1時間ほどの、兵庫県川西市の領地多田荘を起源とし、頼光の子孫には源義家、源頼朝、源義経などがいます。)平家物語によると、この平安中期、都に鬼があらわれ、男も女もさらわれて姿を消す、という事件が相次ぎます。この鬼は、男をさらうときは女に化け、女をさらうときは男に化ける、あるいは被害者が家にいても、さらわれ忽然と消えることすらあり、都中は夕方になると家を固く閉ざし知り合いも入れないという生活でした。そんな中、ある日、頼光は他に物を届ける用事があり、使いを渡辺綱に申し付けます。そして、都が物騒だからと源氏の家宝の宝刀、髭切丸を持たせます。綱が一条戻り橋に馬でさしかかると、身なりの高貴な大変清楚な美女が供も連れずに立っていて、「これから五条辺りに出かけます、どうか送って下さい、お願いします」と声をかけてきます。わかりました、と綱は彼女を自分の馬に乗せます。次の中立売通にさしかからないうちに、女は急にこういいます。「実は五条辺りには大した用事がなくて。都の外まで送っていただけますか」とのこと。「どこまででも御座所までお送りいたしましょう」と丁寧に綱が答えると、いきなり女は姿を鬼に変え、「わが家は愛宕山ぞ!」と叫んで綱の髪のもとどりをつかんで空を駆けます。綱はちっとも騒がず、腰の名刀髭切丸で鬼の腕を斬り、どんと落ちたところが北野天満宮の回廊でした。その後、この事件を心配した源頼光は安倍晴明に相談します。晴明いわく、切り落とした腕を厳重に隠し、綱にはしばらく休みを取らせ、潔斎して家にこもるよう厳命するようにとのことでした。綱は頼光の命令でそれに従いましたが、今度は鬼が綱の乳母(もしくは田舎の叔母)に化けてあらわれ、腕を奪いにあらわれます。そして源氏の名刀髭切はその後、鬼切丸と呼ばれるようになった、というストーリーが平家物語の「剣の巻」にはあります。真偽はともかく、この話は歌舞伎やいろいろな舞台に使われています。ちなみに、渡辺綱は、嵯峨源氏の左大臣源融(光源氏のモデルともいわれる)の子孫で、綱自身も美形で豪勇で知られました。綱の父源宛が若くして急死したため、母は妊娠中に実家に帰り、末っ子の遺腹の子として生まれます。綱が育った母の里が渡辺の里(今の大阪市梅田辺り)だったため、その地名を取り、渡辺綱と呼ばれるようになります。(彼の有能を源頼光がききつけ、娘夫婦の養子に取るという形でリクルートしました。)渡辺綱の子孫は幅広く広がり、源平の争乱や南北朝争乱にも活躍しました。特に有名なのが渡辺党で、大阪住吉あたりから水軍を統括し武勇で知られました。後に、天下人秀吉が目の敵にした渡辺党です。九州の松浦水軍もこの流れといわれます。なお、一条戻り橋は、戦中も、出征する兵士は戻れるようこの橋を通ってから出征し、逆に花嫁行列などは験を担いでここを通らず、遠回りするしきたりが長くありました。大正11年と平成7年に橋は架け替えられましたが、大正11年の架け替えの際、木箱が発掘されたという記事があります。安倍晴明の伝説の箱?ということですぐ埋め戻されたそうです。但し、石の箱だったという証言をする地元の老人もおられるようです。(元々の戻り橋の石材は、向かいの晴明神社に現存します。)千年近く前の不思議...
Read more晴明神社内に古く使われた機材で作ったミニチュアの橋が有る。戻り橋と呼ばれ、794年の平安京造営時に作られた橋、何回も作り直された橋です。 平安中期以降、右京の衰退が著しく、洛中洛外を分ける、又、この世あの世の境目とも呼ばれ、多くの伝説が残っています。
駒札に一例が書かれています。漢学者三善清行の葬列で一時的に生き返った話、 平家物語で源頼光四天王の渡辺網に美女が送って欲しい(実は鬼)と声掛けから始まる話(これは晴明神社にもあります)。
高倉天皇中宮が建礼門院出産の時の母の二位殿の橋占い(源平衰退記)をする。そこに出て来る童子は安倍晴明がこの橋の下に隠していたとか… 式神という人の善悪を監視する鬼神を置いていたとか…
他にも戦国武将の死刑や、秀吉のキリスト殉教者への見せしめの刑など… 一方、嫁入り前の女性は近づくな(戻りは縁起悪い)、戦争出兵士は渡れとか、(生きて戻って来い)とにかく一杯有ります。
今日は早咲きの垂れ桜満開、カメラに納める人が次か...
Read more位於京都市的「一條戻橋」(一条戻橋)擁有超過1200年歷史,有許多傳奇故事在這裡流傳。這裡是當年平安京的最北端,橋梁不僅跨越了堀川,分隔了洛中與洛外,也連接了人間與異界。相傳平安時代的陰陽師安倍晴明住家在這附近,他所眷養的式神就藏於橋下,當年如果有求於安倍晴明,來到橋邊說明來意,式神就會幫忙轉達。要造訪一條戻橋和旁邊的晴明神社,可以從JR京都駅搭乘京都市營巴士(京都市営バス)約30分鐘路程在「一條戻橋、晴明神社前」(一条戻橋・晴明神社前)下車就可抵達,有許多路線有經...
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