Shofukuji Temple is probably the earliest or the oldest Zen Sect Temple in Japan, and it was built in 1195, although its current Sanmon Gate was built in 1911. It worships Triad Buddhas for the Buddha of the Past, of the Present [which is Shakyamuni Buddha], and of the Future as main deities, and for Japanese Zen Buddhism, Three Buddhas are Shaka, Amida, and Miroku.
While the Temple seems to be intended to preserve its original building structures, garden, ponds, and others as much as possible, the Temple does show signs of aging and damage in the Temple yard/site, especially for the area around the pond.
Temple is free of charge for entrance, though there is NO bathroom or toilet inside the Temple. The Temple is in close walking distance from Tochoji Temple, but the road signs for the Shofukuji Temples are NOT well marked or posted for every major road which can be connected...
Read more平成29年6月23日拝観 聖福寺は山号を安国山(通称安山あんざん)、寺号を聖福至仁禅寺しょうふくしじんぜんじといいます。
開山は千光祖師明庵栄西禅師せんこうそしみんなんようさいぜんじです。 建久6年1195に源頼朝公より、この地を賜り、頼朝公を開基として創建された日本で最初の禅寺です。 また後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟」(山門の楼上に提示)の号を賜っています。
栄西ようさい禅師は、 この寺を建てるまでに二度宋に渡り、二度目に渡宋した折に中国の虚庵きあん禅師より印可を得、臨済宗黄龍派りんざいしゅうおうりょうは の法を継承して建久2年1192に帰朝しました。 宋の孝宗こうそう皇帝より「千光せんこう祖師」の号を賜っています。
聖福寺以外に京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺などの禅院を造営し、 『輿禅護国論』など多数の著書を著して禅の宣揚に努めるとともに、 香椎に建久報恩寺を建てて日本で初めての菩薩戒による布薩会を行いました。
また栄西禅師は宋(中国)より「茶」を持ち帰り、当寺境内や背振山などに植えて、 各地に広めました。同時に宋風の喫茶も伝え『喫茶養生記』を著して茶文化の先導的な役割を果たしています。後に「茶祖」と呼ばれる所以です。
栄西禅師の没後、室町時代に入って、聖福寺は五山十刹ごさんじゅっさつ 制度の十刹第三位(後に第二位)に序せられ大いに興隆しました。初め建仁寺派に属し、江戸時代に、 黒田長政公の命により妙心寺派に転派していますが、聞創以来八百余年 現在の住持である第133代白峰老師に至るまで連綿と法灯が護られ、禅の専門道場として厳しい修行が行われています。
聖福寺の境内地は、創建当初、鎌倉幕府源碩朝公より方八町を戴き(「栄西ロ上書ようさいごんじょうしょ」)、七堂伽藍を建立して、丈六の釈迦・弥勒・弥陀の三尊を安置していたと伝えられています。 塔頭も三八院(現在は六院)を数えました。 その後数度の羅災を経ながらも.その都度再建がなされています。
かつて境内地の一部は寺中町じちゅうまちを形成していたと言われ、「安山借屋牒あんざんしゃくやちょう」 1543によれば当駄312人の借屋人がいたと記載されています。今に残る普賢堂・中小路・魚町・店屋てんや・蓮池はすいけ・西門さいもんなどの博多の地名は当時の寺中町からのものです。天正15年1587の太閤町割により寺域も方四町狭められ、ほぼ現在の伽藍の配置になり、 山門、仏殿、方丈、庫裡、禅堂などの禅宗様式の七堂伽藍が立ち、周りに勅使門、開山堂、護聖院しょうごいん、 経蔵や塔頭が立ち並んでいます。 昭和44年1969に境内一帯が国の史跡に指定されています。
栄画禅師以来の歴代の住職の中で最も有名なのが、『博多の仙厓さん』として知られている 僊厓義梵禅師せんがいぎぼんぜんし1750~1837です。 寛政元年1789に聖福寺の住職になり、文化8年1811に隠居して稜、虚白院きょはくいんで酒脱な禅画を描き、機知に富んだ詩句を用いた教えを説いて、人々に親しまれました。...
Read more★☆日本茶の発祥地が聖福寺★日本に仏教を伝えた百済の聖王と日本書紀に記される★12月8日は釈迦が明けの明星を見て悟りを開いて仏陀となる★日本最初の茶園の小さな碑が建つ・前庭と背振山にお茶を植えた★八十八夜とは立春2月3日から88日目が★茶摘みの目安★聖福寺の創建は建久6年の1195年開基は鎌倉初代将軍・源頼朝の寄進。開山は千光祖師明庵★栄西ヨウサイ禅師が開いた★最初の禅寺=座禅のお寺・栄西は現在われわれが★毎日飲んでいる日本茶を初めて伝えた=鎌倉幕府の記録★吾妻あづま鏡に3代将軍源実朝が二日酔いで苦しみ栄西が茶を献上して回復した当時は薬として効能が重んじられたお茶は禅との深い関係はなかった聖福寺の裏には画僧として有名な☆仙厓和尚が住んでいた幻住庵がある・仙厓センガイ義梵ギボンが正式名で1789年40歳の時に聖福寺第123世住職となる仙厓和尚は1750年美濃国の貧しい農家に生まれ11歳で出家19歳で行脚し臨済宗東輝庵トウキアンの月船禅慧ゲツセンゼンネの門下で厳しい修行を積んだ・お寺の門を山門と言うのは僧侶が山で修行したのでお寺の称号の始めに山がつき次にお寺の名前。山門=三門をくぐる時は手前で合掌し礼拝し・女は右足から男は左足からくぐる3つに分かれた山門はどこからでも良いが仏教の中道と言うちょうど良い真ん中を通る教えがある合掌の右手は仏様・左手は自分自身を表し仏様と一緒になると言う事で合掌する参拝はまず御本尊に目を合わせて礼拝をして合掌し・お焼香回数は1回〜3回まで宗派によって違う最後に合掌して南無阿弥陀仏と拝みお願いを言って礼拝。喫茶養生記を著して将軍源実朝に献上した。お茶の種類は違うが★八女に持って行き八女茶★宇治に持って行き宇治茶となった・栄西禅師が日本に伝える前の日本に昔から野生の茶樹が宮崎県の山茶で知られ僧の行基が茶木を植えたものは庶民が飲めない薬として飲まれた。お焼香は貪瞋痴トンジンチと言う煩悩を★お焼香に込めて焼き払う・108ある煩悩・貧トンは欲望・瞋ジンは怒り痴チは愚痴のことを言う・仏様にも役割があり文殊菩薩は学問・薬師如来は病気のご利益・神社ゃお寺でのお守りのご利益に違いは無い・名前の読み方も栄西禅師はヨウサイ・エイサと二通りがある。敷地内駐車場数台ある・御朱印手書き5百円以上・印の御朱印3百円以上で写経の御朱印百円以上釣銭なし。地下鉄祇園駅から徒歩5分。祇園・奥の堂バス停から7、8分・大分の梅谷山西寳寺に仙厓義梵の書の西寳寺山号・梅谷山と書かれた5百万する書があり印章は仙厓がよく使うだるま型の印が使われている・額を作る時にもう一枚板に貼って彫る山門の額と同じ字の...
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