I personally enjoyed this temple on the Hakata night walk, but it is not my favorite. It had a unique prisim color demonstration near the heart of the shrine. But besides that, it only had a color changing tree. Compared to the other temples avaliable on the walk, I would rank this one third for its lack of diverse colors. But for the temple itself, I would rate it very highly. Regardless of how I see it on the night walk, I think most temples are worth to check out. It can be a quick visit or long one....
Read more平成29年6月23日拝観 正和5年1316に創建され、博多の北浜にあった。 大陸との貿易交流でにぎわったが、天正14年1586兵火にかかり焼失したのを、 慶長5年1600この地に移された。墓所には博多商人の 三傑さんけつ神屋宗湛、博多の豪商で鎖国の禁を破り、処刑された伊藤小左衛門一家の墓がある。
『筑前國続風土記』によると、正和5年1316に月堂宗規和尚により開山された。 月堂は筑前宗像郡むなかたぐん 大保おおほ[2]の人で、 大應國師だいおうこくし[3]の弟子にあたる。
火災で焼失したのは天文7年1538とある。 上の内容と矛盾する。詳細不明。
また、同書によると焼失する前の妙楽寺があった所には「異賊来襲の防ぎの為石垣を築かれていた」とある。 その為に「石城山」という山号になったのではなかろうか。
尚、この石垣は元寇防塁 と考えられる。博多湾沿岸には、いたる所に現在でも元寇防塁跡が残っている。
右の『筑前名所図会』には、ほぼ現在と同様の伽藍配置で妙楽寺が描かれている。...
Read more千年煌夜の際にはじめて訪問しました。山号の石城山は、当初、元寇防塁のあった海辺(いまの古門戸町あたり)に建てられたことに由来するそうです。当時は元・明・朝鮮との交流も盛んで、使節の宿舎として利用されることもあったそう。 薬の「ういろう」の起源は、元の滅亡によって亡命してきた陳宗敬が伝えた薬「透頂香」で、その官職名の「礼部員外郎」から「ういろう」と呼ばれるようになったと。境内の「ういろう伝来之地」の石碑は、そういった由来で作られたそうです。 戦国時代に焼失してしまったものの、江戸時代の古地図を見ると、いまの古門戸町の横町筋あたりに「妙楽寺通り」と書いてあり、通りにその名前を残していたことが分かります。長政公の入国の際に現在の場所に移転されたそうです。
その後、太平洋戦争の空襲でも焼けてしまったそうで、歴史的に博多の人たちと苦楽を共にしてきた...
Read more