アクセス: ・JR鎌倉駅東口から徒歩20分 ・JR鎌倉駅東口4番・5番バス乗り場から八幡宮・浄明寺方面行きで「岐れ道」下車徒歩約3分
2005年(平成17年)、源頼朝墓東隣の山の中腹から北条義時(二代執権)のものと考えられる法華堂跡が発掘された。 調査の結果、1辺が8.4メートルの正方形の三間堂であったと推測されている。
・義時の法華堂は、遺言によって建立されたとれ、『吾妻鏡』には、「故右大将家(源頼朝のこと)法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記載されている。
鎌倉幕府の執権は、「将軍を補佐し、政務を統べる重要な役職」のことで す。
初代執権は、北条時政(伊豆国北条を領していた武将で頼朝の妻、政子の父)で、 源頼朝が生存していた頃は、将軍(頼朝)独裁政権であったため、執権という職はさほど重要職ではなかったが、頼朝亡き後(1199年 53才で没す)、北条執権体制が確立されていった。
~北条執権体制の流れ~ 北条時政は伊豆国北条を領していた武将。 ・1180年(治承4年)に挙兵した源頼朝を支援。 娘の北条政子は頼朝の妻。 ・1185年(文治元年)の守護・地頭の設置(文治の 勅許)では、軍勢を率いて上洛した。 ・1199年(正治元年)源頼朝亡き後、二代将軍源頼家の独裁を停止し「宿老13人の合議制」を提案。 ・1200年(正治2年)梶原景時(有力御家人)を滅ぼし た。(梶原一族滅亡) ・1203年(建仁3年)比企能員(有力御家人)を滅ぼし た。(比企一族滅亡) ・1203年(建仁3年)二代将軍源頼家を出家させ、伊豆修善寺に幽閉する。 ・比企氏を滅ぼしたのを機に「政所別当」に就任。 ・三代将軍源実朝の補佐役として幕府の実権を握っ た。 ・1204年(元久元年)源頼家(23才)を伊豆修善寺で殺害する。 ・1205年(元久2年)畠山重忠の乱後、無実の畠山重忠・重保父子を謀 殺した上、娘婿の一条実雅を将軍に据えようと企 てたことで、北条政子・義時 姉弟によって出家 させられ、鎌倉を追放され伊豆国韮山に隠退。北条時政失脚。( 1215年(建保3年)1月16日、伊豆国の北条の 地で死去(享年78)。墓所は願成就院。) ・1205年(元久2年)北条義時(初代執権北条時政の次男)、二代執権となる。 北条義時は、源頼朝亡き後の御家人による政権争奪に深く関わり、 父時政を鎌倉から追放し二代執権の座についた。(世代交代) ・1213年(建保元年)和田義盛を滅ぼし た。(和田一族滅亡) ・1219年(承久元年)三代将軍源実朝(28才)、公卿(実朝の兄の頼家の遺児)に殺害される。 三代将軍源実朝の暗殺では、裏で暗殺者である公暁を操っていたとも考えられている。(源氏の滅亡) ・1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」を鎮圧。 このようにして、北条執権体制を確立した義時は、 ・ 1224年(元文元年)6月13日、62歳で急死したが、暗殺されたのではないかという説もある。
・ 1224年(元文元年)北条泰時、三代執権となる。 ・...
Read moreThe area has another site of Hokke-do Hall, or there used to be another Hokke-do Hall nearby, which was built to pray for the comfort of Hojo Yoshitoki (1163-1224) in the other world. I’m afraid I have to say that the hall for Yoshitoki might have been bigger than that for Yoritomo, who was...
Read more2022.01追記 いつの間にか名称が「墓」になっている。 大河ドラマによって注目も集まると思うので、あえて明確にしておくが、この場所はあくまでも「法華堂跡」である。 吾妻鏡には「故右大将家(頼朝)法華堂東の山上を以て墳墓となす」との記述がみられるが、未だ義時クラスの大物が葬られたとみられる埋葬施設は見つかっておらず。 また、吾妻鏡の編纂期が義時の死後70年以上後である事からみても正確性は期待出来ない。 ただし、当時の有力者等が頼朝の法華堂と合わせて参拝していたと言う記録も残るので、義時の供養施設であった事は間違いないだろう。
現時点での「義時の墓所」は伊豆の北条寺とされる。
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2020.01追記
2022年度の大河ドラマに義時を主役とした「鎌倉殿の13人」が決まりました。
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