この一帯は1569年(永禄12)織田信長が将軍足利義昭のために造営した二条城(現二条城とは別)の跡である。堀をめぐらせ、高い石垣に櫓を設け、城内も庭園や建物に粋を凝らした堅固で華麗な城郭であった。1573年(天正1)信長により義昭が追放され、城は取り壊された。その後、付近の地下鉄工事で約100体の石仏が発見され、城の石垣に使われたものと判明。この築城を70日で仕上げたこととも思いあわせ、信長の強権ぶりがうかがえる。この石仏は伏見区、安楽寿院と、西京区、京都市洛西竹林公園に保管され、同時に発見された石垣の一部は、京都御苑下立売御門内と、現二条城内に復元されている。現地平安女学院前に石碑がある。 京都市 This area is the site of Nijo Castle (separate from the current Nijo Castle) built by Nobunaga Oda for Shogun Ashikaga Yoshiaki in 1569 (Eiroku 12). Around the moat, a turret was set up on a high stone wall, and the inside of the castle was a solid and splendid castle with elaborate gardens and buildings. Yoshiaki was banished by Nobunaga in 1573 (Tensho 1), and the castle was demolished. After that, about 100 stone Buddhas were discovered in the subway construction nearby, and it turned out that they were used for the stone walls of the castle. Nobunaga's power can be seen in the idea that this castle was completed in 70 days. This stone Buddha is stored in Fushimi Ward, Anrakujuin, Nishikyo Ward, and Rakusai Takebayashi Park in Kyoto City. .. There is a stone monument in front of the local Heian Jogakuin. ...
Read more旧二条城(きゅうにじょうじょう)は室町幕府15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。二条通からは遠く離れていた。ただし平安京条坊制の「二条」(二条大路と中御門大路(現椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分がわずかに含まれる。義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年(1568年)に上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていたが、翌12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けた(本圀寺の変)。この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備...
Read more足利義輝の二条邸から少し離れた場所に足利義昭を護衛するために織田信長が築城した旧二条城跡に行ってきました。わずか70日で築城したとは思えない程の技術で石垣はお寺の墓石や有るだけの石で石垣を使って築城したそうです。京都市営地下鉄を工事したときに寺社関係の石が出てきてこの辺りを発掘したそうです。わずか4年後に足利義昭が織田信長に追放されると旧二条城は取り壊され木材や石垣は後の安土城築城に使われました。信長は美濃攻めに小牧山城を築城しますが美濃を平定したら小牧山城を取り壊し、岐阜城の改築に使いました。信長らしい無駄を省いた...
Read more