普段は地下鉄に乗らないので、全く気づきませんでした。霞ヶ関ビルディングから東京メトロ銀座線虎ノ門駅に向かう途中にある気合の入った史跡。 わずかに残された外堀跡をきれいに展示してます。
この石垣は、虎ノ門から続く江戸城外堀の一部です。この石垣は、寛永13年(1636)に築かれたものですが、部分的に不揃いな積み方があることから、数度も改修されたと考えられます。石垣表面には石を割った矢穴や構築大名を示す刻印がみられます。 もともとこの堀は、石として高さ9mほどの石垣が続いていましたが、現在はその一部が点在して残るだけです。ここでは、長さ20m、高さ7.4mの石垣をすべて保存したうえで一部埋め戻して、変形をきたした石垣を伝統技法によって旧態に戻す解体修理を実施しました。 この展示室と旧庁舎中庭石垣では、外堀の堀底および推定される水面の高さを表示し、正面の石垣は水面からそびえる石垣の姿を再現しました。当敷地内には3カ所で石垣を公開するとともに、石垣のラインを表示しました。これによって、江戸城外堀跡と現代の街区との比較が現地で確認できます。積替の石は同じ外堀の丸の内一丁目遺跡のものを使用しました。
外堀は城の防のための重要施設であることから、普請には当時の土木工事技術の先端が使われています。 以前は工事現場近くの材料で土木工事をしていましたが、大規模な外堀普請には「工場」での材料製作、材料の工場から現場までの「運搬」、現場での「施工」という流れで現在の工事と同じように、分業化された効率的な工事が行われました。 「工場」の伊豆の石切場では効率的な施工を考慮し規格化された石を加工しました。「運搬」には場所に応じて、経験則から力学を応用した船や道具で行いました。「施工」は高い石垣を築くために断面形状を工夫して行いました。 また、これらの様子は「築城図屏風」などに描かれ、都市を造る土木工事の活気を伝えています。
東京は、いうまでもなく声の城玉町から発展した都市です。その中心である江戸城は、慶長9年(1604)から永13年(1636)にかけて造られた近世長大の城郭です。なかでも江戸城外堀は、築城の最終にあたる大工事 でく これによって城下町を取り囲む延長約14kmの惣 構が完成します。 明治維新後は、江戸の防御施設である外堀は役目を終えて一部は埋められていきますが、今も道路や鉄道網などと都市の骨格に利用されています。 この図は、江戸城の痕跡や江戸の町割りを現代の街区に重ね合わせたものです。この図から地形を巧みに利用して江戸城外堀や町がつくられ、それが現代の東京に引き継がれていることがよくわかります。
この図は、発掘調査で判明した江戸城外堀跡をもとに江戸と現代の地図を重ねたものです。この図によって、虎御門が現在の虎ノ門交差点付近に位置し、東の街区がかつての 外堀となり、当敷地三カ所の石垣や櫓台石垣は外堀西岸にあることを読み取ることができました。四神相応の大道を表す「白虎」に由来するといわれる虎御門は、かつて外桜田門から続く小田原道が通っていたといいます。外堀に唯一ある櫓は、門とともにこの街道を守る拠点であったとも考えられます。 また、半地周辺では外堀に面して延岡藩内藤家の屋敷が、対岸の金比羅神社は、讃岐丸亀藩京極家屋敷内にあった社であることがわかります。 このように、遺跡発掘調査によって江戸城外堀跡が明らかとなり、そこからまちづくりの歴...
Read more銀座線虎ノ門駅11番出口から地上を目指すと、エスカレータと階段が見えてきます。左側の階段を上がると江戸城外堀跡地下展示室があります。正面のガラスの向こうに外堀の石積みが見え、その他の壁に地図を含めた説明のパネルが並んでいます。江戸城というと皇居があるあの場所のお堀の内側というイメージでした(これだけでも結構広いのですが)。外堀までとなると東京駅も含まれてしまい、かなり広大な範囲になるのですね。巨大な石を伊豆から切り出し、14Kmもの石垣を諸大名に造らせた幕府の権勢は相当なものだったのですね。外堀跡がある虎ノ門交差点から内堀の外桜田門までは、歩ける距離ではありますが、その間には文部科学省、財務省、観光庁、警視庁といった結構大きめな建物が並んでいます。当時も内堀と外堀の間は野原だったわけではなく、大名屋敷を含めた城下町があったのでしょうから、ちょっとした城塞都市のような...
Read moreThis is more like a small display rather than a museum and it’s free and it only takes a minute to...
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