もともとは伏見桃山(京都市伏見区)にあったお寺です。平安期、藤原頼道の次男橘俊綱の創立と伝わります。その後、秀吉の都市計画による強制移転や明治の廃仏毀釈を経て、泉涌寺塔頭の寺に吸収合併され、一度廃寺になったものの、泉涌寺総門近くの現在地に移転、昭和になって「即成院」の寺号を復活しました。 屋島の合戦での扇の的で有名な那須与一宗高の大きなお墓があります。屋島の伝承では、安徳天皇の御座所を焼き払ったのは与一率いる三十騎だといわれています。平家物語には「空飛ぶ鳥を、3羽に2羽は射落とす」と書かれた弓の名手です。屋島合戦で平家の挑発を受けた際、関東一の弓取りとして、義経に推挙されました。 平家の指し示す海上の船の棒の上にかかげられた扇の的を、海風に揺れる中、見事に一矢で射抜いた名人です。選ばれた以上、辞退しても切腹、失敗しても切腹。大変なプレッシャーの中、与一は馬で海に乗り入れ、船上の的をみると、普段なら余裕で射れる距離でしたが、なにせ波と海風が…。決死の覚悟の彼は故郷の神に祈ります。なにとぞ、波風を鎮めたまえ。すると、一瞬風が弱まり、すかさずその隙に射抜いた、と平家物語は語ります。あまりの快挙に、源氏も平家も、敵も味方もともに、馬や船の横を叩いて沸き立ち喜び称えました。平家物語は続きます。その時、興に乗った平家の侍が踊りだします。次いで、あれを射殺せとの義経の命。すっかり平常心を取り戻した与一は、首筋を一矢で射抜きます。静まり返る平家の陣。屋島での名場面です。 与一の墓と伝わるものは全国に3カ所あります。彼の故郷である那須温泉神社のほうにも訪問しました。ちなみに、与一は故郷のその那須温泉神社に、その時の御礼として鳥居を寄進しました。木の素朴な鳥居ですが、非常に味わい深い姿で、今も現存します。現地の言い伝えや郷土史の本によると、与一は那須に戻ってから亡くなったとのことでした。他に、那須の塩原にも那須氏が本墓とする墓もあります。そもそも、当初、源平合戦の折、那須家当主(父)は、リスクヘッジの為、上の兄たちを平家方につけ、与一(=十余り一、十一男)とそのすぐ上の兄の二人を源氏方に出しました。二人は鎌倉を経て義経に従い平家追討に従軍しますが、与一よりさらに弓の上手だったと平家物語にある兄のほうは、一の谷の合戦で足を負傷し、関西で若くして亡くなったそうです。(私見ですが、もしかしたら、3カ所の墓所の一つはひょっとしてこの兄上かも知れません。)終戦後、与一は当初こそ恩賞に預かりますが、義経についたため頼朝から冷遇され、転戦の疲れがたまったのか、ライ病に罹り、何とか故郷の那須に戻ってきたものの、妙に皆よそよそしい。それで伯母に会いに行ったところ、黙って鏡を差し出されたそうです。それで初めて自分の姿を見て絶望し、近くの川に入水自殺をしたと那須では伝わっているそうです。今となっては真実は不明ですが、だとすれば、華やかな源氏方の伝説の英雄の思いがけない最期です。今ならライ病は大変良く効く薬があり治る病気ですが、当時はまだ不治の病でした。ライ病は本来非常に弱い病原菌で、体力が落ち衰弱した時にかかりやすいともいわれ、当時、今のような交通網もない中、徒歩や馬で、山々を越え、数々の川を越え、木の船で海を越え、関東から西日本へ、敵と都度転戦しながらの遠征は、鎌倉方もかなり消耗したのかもしれません。平家方についた上の兄たちは、平家滅亡後それぞれ逃亡しましたが、与一の伝説的な輝かしい働きのお蔭で許されて故郷に戻ってこれたといわれています。那須与一は那須一族の誉れとして故郷と京で祀られています。 いずれにせよ、弓矢取る身の誉れ、八百数十年を超えて音にきこえた源平合戦の華を飾る輝かしい英雄与一は20代の若さで亡くなったようです。 なお、こちらのお寺では、25菩薩が堂内に祀られています。明治期に旧国宝指定、現在は重要文化財です。うち10体が平安期の作、残る15体は江戸時代の補作です。お話によると、京都では、明治の廃仏毀釈の際、様々な御寺の本尊や仏像が集められ、容赦なくどんどん壊して破棄されました。こちらの25菩薩も同じく、破棄すべく二条辺り(JR二条辺りは江戸時代から刑場でした)に持っていかれたそうですが、信仰深い信者さんたちがあんまりだと大八車で取り返しに行ってくださったそうです。全国的な廃仏毀釈…時代とはいえ、勿体ない事をしましたね。今もこちらで大切に祀られています。 なお、ここまで来られましたら、後水尾天皇の母后、女御近衛前子(秀吉の養女)が深く信仰された、鎌倉期・運慶湛慶作の10mの丈六仏が現存する戒光寺(元新選組・御陵衛士、伊東甲子太郎・藤堂平助の墓あり)、承久の乱後の四条天皇以来、皇室を祀る御寺泉涌寺、「枕草子」の清少納言が仕えた皇后定子の鳥辺野陵も近いので、昔からの、鳥辺野の露と消え…というみやびな文学表現にまつわる地が実感できます。(平安京では、鳥辺野は貴紳庶民問わず長く風葬地でした。)お時間が許せ...
Read moreGreat area with numerous temples, serene environment, and a must-visit for anyone looking to get away from the tourists.
REMINDER: You're in another country. Most people here do not speak English and many signs have no translation. Nor are they obligated to. So, if you're one of THOSE tourists who feels that the world needs to cater to you, then maybe stay away...
Read more即成院(そくじょういん) 平安時代の創建。 藤原頼通の子、橘俊綱(たちばなとしつな)が、1000年前に平等院に建立、明治時代の廃仏毀釈で、現在地に移った。 中心の阿弥陀如来と、観音菩薩、勢至菩薩、向かって右手に三列四段12菩薩、向かって左に三列四段の11菩薩。この25菩薩が、阿弥陀仏とともに臨終の際に来迎する。 阿弥陀如来と25菩薩は、通常、現世には留まらないが、向かって左の最手前段、最左の如意輪観音は、現世に留まる観音で、来迎を迎え、見送る役割として、また、左右のバランスのために、そこに加わっている。 現世に留まる、というために、25菩薩は通常は立ち姿であるところ、即成院では、座っている。また、勢至菩薩、観音菩薩は、大和座りであるが、もっとも、低い姿勢の大和座りとなっている。 向かって右の最手前段再左の地蔵菩薩と、向かって左の勢至菩薩を除き、冠の無い菩薩像は平安時代、その他は江戸時代。 向かって右、最手前段真ん中の獅子吼菩薩は、歯を見せて笑っている。その真後ろの菩薩は、笙(しょう)を1000年間吹き続けている。そこで、笙だけのCDを寺で制作。また、声を出す仕事の人が訪れる。 仏像は、中が空洞で、外内ともに、金箔。中側は、現在でも金箔が光っている。 仏像が空洞であるため、音の響きが良い、ということらしい。 本堂はの壁は漆喰で、昭和時代の建築。 本堂天井から吊り下げた瓔珞(ようらく)は、阪神淡路大震災の際に、部分が落ちため、外して修理をした。その際に、洗をしたとこと、内側天井部に制作当時に描かれた鳳凰図と、金色が蘇った。瓔珞の重さは250キログラムあり、再び、仏像のある本堂に吊り下げるのは、文化庁から許可されず、現在は、外陣に吊り下げられている。
菩薩体験は、事前申し込みで、江戸時代制作の菩薩面を当てることができる。 菩薩面は、25菩薩のものがある。
本堂の裏手には、那須与一の墓がある。現在は、堂を立て直し中のため、外にあるが、堂完...
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