美しい陵です。今熊野観音さんのほうからも歩けました。昔ながらの東山の山景色ですが、途中古い煙突で何か燃やしておられて、消えゆく煙が鳥辺野の風情を良くあらわしていました。こちらには数多くの妃が眠っていますが、藤原道長に圧迫された藤原定子の御陵もこちらにあります。清少納言も仕えた、一条天皇の年上の后定子は、小柄で愛らしい人柄で、天皇の寵愛が深かったのですが、なかなか皇子に恵まれず、実家が零落してから待望の皇子を授かります。実家に下がってから出家しましたが、一条天皇のたっての望みで還俗し、宮中に復帰しますが、まわりは道長の機嫌を伺い、後宮にはどこの部屋も空いていないと復帰を拒否します。道長の迫害で、定子は後宮にも戻れませんでした。幽霊が出るという文官が嫌う後宮外の空き部屋ならありますが…と。天皇はそれで良いと条件を呑みますが、あからさまな周囲の嫌がらせに、人目を憚り、深夜皆が寝静まってからこっそりと定子のところにお見えになる毎日でした。しばらくして、定子は二人目の皇女を産み、産後の肥立ちが悪く没します。定子の産んだ皇子、敦康親王は、2才で母后を失い、皇太子・東宮にはなれませんでした。皇位は彰子の皇子が継ぎました。皇后腹の第一皇子が東宮になれないことは異例で、世の人に惜しまれました。その後、敦康親王は20歳前後で若くに亡くなります。その後、道長の天下が極まりました。公式には、一条天皇の皇后は定子、中宮は...
Read more悲田院の後は同じ大河ドラマに関連の一条天皇后定子の眠る鳥戸野陵です。 こんなシーンが有ります。「私の事は気になさらず、彰子様を中宮になさいませ(中略)人の想いと行いは裏腹でございます。彰子様にお会いの時は私の事は考えぬ様に…彰子様とて見えている物だけが全てではございません」そんな言葉を残します。
やがて、一帝二后の儀式も終わり定子と清少納言のやり取り。定子がこんな歌を贈ります。「みな人の花や蝶やと急ぐ日も我が心をば君ぞ知りける」 で、その年末に亡くなります。なんと悲しい"定子ロス"かと…😭 更に、凡帳に結ばれた歌に涙です「夜もすがら ちぎりし事を忘れずは 恋ひむ涙の色ぞゆかしき」と…
ドラマの後、この鳥戸野陵が紹介されます。一条天皇が定子に贈った歌「野辺までに心ばかりは通えども わが行幸とも知らずやあるらん」と…当日は雪が降ったらしい。 個人的感想ですが、今日の参道から見る京都タワーは美しかった。
定子の教育係の清少納言は晩年、東山月輪で静かに暮らす。泉涌寺に石碑が立ち歌が刻まれている。 「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」一寸...
Read moreこの地に薄幸の人、定子皇后の墓所のあることはつい最近、KBS京都テレビの番組で知りました。下の道からの階段とスロープがどうしてこんなにデコボコなのか、不可解というほかありませんが、石柵に囲まれた鳥居のある拝所は広すぎず狭すぎず、心の落ち着くよい空間でした。 ここへは今熊野観音寺の鳥居橋の下をくぐる道を北北西にたどるコースもありますが、私はその逆の東大路通(東山通)から東へ、そのあと南東へ進むコースを使ったので、目印になるものを記しておきます。 泉涌寺道バス停から北へ1、2分行くと、東に「アイチ」という花屋さんがありますので、その角から東へ上り坂を5分ほど。剣神社を左手に見ながら通過するとまもなく、やや唐突に右方へ下ってゆく小さな道が現れます。そこを進んで小さな橋を渡り、階段を上ると(この橋から階段にかけての数十メートルがグーグルストリートビューでは空白になっていますが、ちゃんと通じていますのでご安心ください。ただし徒歩のみですが)、あとは一本道...
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