Taira no Masakado's Grave
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都の指定史跡。 令和3年4月27日訪問。令和の普請工事が終わり,境内がきれいになった。というよりも「思い切って様相を変えてみた」に近い。境内の至るところに九曜紋を,隠れミッキー的にあしらっていた。 伝承上,将門塚は平安時代から存在したというが,鎌倉時代後期には荒廃し,これを憐れんだ真教という僧侶が改修を行ったとされる。 江戸時代になると,将門塚は大名屋敷の庭の中に含まれたため,当該大名によって管理・維持されていたものと考えられる。 明治維新後は,織田完之らの働きかけにより将門塚保存の機運が高まり,『故蹟保存碑』や『二代目石塔婆』などが建てられた。 しかし,大正時代,関東大震災によって壊滅的な被害を受け,その後の改修によって,江戸以前の様相がほぼ完全に失われた。 そして,戦後に結成された将門塚保存会による改修は,計六回を数えている(1961年,1963年,1965年,1973年,1976年,2020年)。 以上の通り,将門塚は歴史上複数回の改修が繰り返されている。特に,多くの人がパワースポットとして慣れ親しむ様になった景観は,同会によって1973年に創作されたものであった点に留意されたい。 以下に,観察情報を記載する。 【平将門石塔婆】 結論から言えば,この石造物は四代目。 オリジナルは鎌倉時代の僧侶 真教が作ったと伝わるが,江戸中期以降に逸失していたという。 二代目は,明治四十年(1907年),将門塚の保存を訴えた織田完之らによって建てられる。なんでも江戸中期の其阿という僧侶がオリジナルから拓本を採っていたらしく,二代目は,この揮毫を元に再現されたとされる。しかし,これも昭和十五年(1940年)の雷火によって焼失した。 三代目は,大蔵大臣 河田烈によって再建されたが,これも昭和四十五年(1970年)七月に逸失。そして,同年九月に四代目が再々々建された。 正面右には「平將門 蓮阿彌陀佛」「徳治二年」「南無阿彌陀佛」と独特な書体で名号を陰刻し,その下に蓮花座を線刻する。裏面には,再々々建までの経緯が刻まれていた。 【千鳥石】 明治期当地には,古井戸と池があり,この石はその池にあったという。古井戸は池の傍にあって,「そこで将門の首を洗ったのだ」という伝承があった。しかし,古くから「その信憑性は低い」とされていた(『墓碑史蹟研究』)。いずれも現存しない。 【故蹟保存碑】 明治三十九年(1906年)五月健之銘。題字揮毫 河田烈。裏面に漢文。阪谷芳郎 撰文。調べるに,これも二代目で,明治三十九年のオリジナルは逸失しているとのこと。 肝心の碑文内容は,大蔵省創立三十七年の省史を編纂しようとして編纂委員会を立ち上げたことを記念するものであり,その序として,当地にあった平将門の塚の保存の由縁を刻んでいる様に読める。 なお,二代目の漢文内容は,オリジナルと一致している様である(『墓碑史蹟研究』)。 以下に,首塚に関連する部分のみを抜粋して私訳を試みる。 ≪故蹟保存碑 抄訳 訓読≫ ……按(カンガエ)るに,此地(コノチ)芝崎村(シバサキムラ)と昔(イニシエ)に稱(ショウ)し,寺嚮(サキ)に有り。曰く,「日輪寺の平將門の冢(ツカ)焉(ココ)に在(ア)り。德治二年,遊行(ユギョウ)眞教坊(シンキョウボウ)芝﨑道場(シバサキドウジョウ)と改称し,將門に蓮阿彌陀佛(レンアミダブツ)と諡(オク)る。親(ミズカ)ら書(カキ)て,碑を植(タ)ち,祠を造(ツクリ)て,其祀(ソノマツリ)を存(タモ)つ」と云い, 今猶(イマナオ)古冢(コチョウ)井池(セイチ)喬木(キョウボク)石燈(セキトウ)水磐(スイバン)存(タモタレ)て有り。事(コトガラ)子(オトコ)織田完之(オダカンシ)の『將門故蹟考』の著(アラワ)す所に詳(クワシ)く,地形の變遷(ヘンセン)を顧(カエリミル)に,故蹟(コセキ)隱晦(インカイ)易(シヤス)く,保存の方,後人(コウジン)宜(ヨロシ)く講(コウ)ずべきなり…… ≪上記私訳≫ ……(撰文者 阪谷芳郎が)調べるに,この土地はかつて芝崎村と呼ばれ,寺が近くにあったとされる。言い伝えには,「日輪寺の平将門の塚はここにあった。1307年(徳治二年),遊行の真教が(日輪寺を)芝崎道場と改称し,将門に『蓮阿彌陀佛』と(忌名を)贈る。(真教が)自ら筆をとり,碑を建てて,祠を造営し,その祭礼を守ってきた」とあり,1906年(明治三十九年)現在もなお,古塚,池井,高木,石灯籠,手水石が残っている。将門塚については,織田完之なる男の『將門故蹟考』(という本)に詳しく,地形の変遷を考えると史跡として滅失しやすい(状態にあるという)ので,保存の方は,後世の人々が行うべきであろう……
山田万歳山田万歳
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東京都指定の旧跡の一つですが、畏怖の対象としてのパワースポット、という印象が強いスポットです。 承平天慶の乱により討ち取られ、京都に晒された平将門の首が、光を放って東方に飛び去り、この地に落ちたという伝承があります。村人によって埋葬されたものの強い怨念から祟りが相次いだことから、神田明神の祭神として祀る等供養を施したところ、怨念も鎮まり、その後はこの地の守護神になった、と伝わります。1000年以上も前の伝承であるため、単なる伝承に過ぎなかったはずが、関東大震災や第二次世界大戦後の都市復興の区画整理の際、不用意にこの塚の取り壊しや移設をしようとしたため、不審の事故や死傷者が相次いだことから、単なる伝承では済まされなくなり、整備を繰り返しながら今日まで保存されるに至ります。 近隣企業が参加した保存会によって維持管理されるため、敷地内は勿論周辺も一切のゴミの散乱も無く美しく保たれています。塚以外何もなく、また供養塔への賽銭や供え物は禁止となっています。ただ静かに心穏やかにお参りするといいでしょう。 It's one of the historic sites designated by the Tokyo Metropolitan Government, but it gives the strong impression of being a power spot as an awe-inspiring object of worship. According to mere folklore, the head of Taira no Masakado, who was defeated in the Johei-Tengyo Rebellion and exposed in Kyoto, flew away to the east and fell here. The villagers buried the head, but it was cursed by a strong grudge, so he was enshrined as a deity of Kanda Myojin and other offerings were made, the grudge was quelled, and he became the guardian deity of the area. You would think that this is mere folklore, since it's more than 1,000 years old. But what would you think if, just 100 years ago, during the Great Kanto Earthquake or during the rezoning of the city for urban reconstruction after World War II, an attempt was made to inadvertently tear down or relocate this mound, resulting in a series of suspicious accidents, casualties, and injuries? This could no longer be mere folklore, and it has been preserved to this day through repeated maintenance. The mound is maintained and managed by a preservation society with the participation of neighboring businesses, so the site and surrounding area are kept beautiful and free of any litter. There is nothing to see but the mound, and offering money or offerings to the memorial tower is prohibited. It is best to simply visit the mound quietly and peacefully.
Hiroaki KanekoHiroaki Kaneko
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帝都物語のイメージ 築土神社や神田神社同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。 1923年(大正12年)の関東大震災後に都市再開発(復興計画)として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大蔵大臣(第1次若槻内閣)・早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで、将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊して鎮魂碑を立てた。1928年(昭和3年)3月には大蔵省が主催して鎮魂祭を行っている。 しかし、早速が大蔵大臣に就任、それから程なくして亡くなったのは仮庁舎建設の3年後の1926年(大正15年)であり、仮庁舎建設には関わっていない。また、工事部長だった矢橋賢吉が死亡したのは建設から4年後の1927年(昭和2年)である。 さらに、大蔵省庁舎が落雷による火災で焼失したのは、17年後の1940年(昭和15年)の事であり、この日都内では20ヶ所で落雷していて、航空局に落雷して発生した火災が延焼したものであった。 また、第二次世界大戦後に戦災復興都市計画として、GHQが丸の内・大手町周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去・造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めた。 アメリカ軍のブルドーザーが作業中に横転し、運転手が投げ出されて死亡。それまでも事故があり日本人の労務者に怪我人が出ていたので付近を調査したところ、転覆したブルドーザーの前に半分埋まっている墓のようなものが見つかり大騒ぎとなった。当時町内会長であった遠藤政蔵により、将門の首塚の碑であることが判明し、GHQ当局に陳情を重ねた結果、塚の取り壊しが中止された。 それらの結果、大手町周辺が高層ビル街へと発展する過程においても、首塚は取り壊しや移転を免れて残ることとなり、現在でも毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示しており、近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。 2021年の第6次目の改修整備以降、一般参詣者の敷地内に供物、物品の寄進、お線香台の利用は禁止となっており注意が必要である。平将門命への奉納希望者は、将門塚を管理している外神田の神田神社社務所にて受け付けている。お賽銭に限り以前と同様に将門塚敷地内、九曜の家紋が掘られた賽銭箱にて受け付けている。 第6次目の改修工事以前、首塚の境内には多数の蛙の置物が奉納されていた。将門の首が京都から飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、左遷に遭った会社員が、元の会社に無事に戻ってこられるように、あるいは誘拐されたり行方不明になった子供が、無事帰ってこられるように、といった願いをかけて供えられたものである。若王子事件以来、目立つようになった。
shinichi kishikawashinichi kishikawa
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▼京の獄門晒し首は、平将門が史料に残る最初の人物だったと言います。 ▼晒された彼の首は、まるまる3か月間も目をくわっと開けたまま、腐りもせず、まるで生きているような状態であったとされます。 ▼そして、夜な夜な「俺のカラダ(胴体)を返せ、そしてもう一戦やろうぞ!」と、悔しそうに呻いたと言われています。 ▼ところが、3か月経ったある晩、将門の首は忽然と獄門から消えます。 ▼京の人々は、首は宙を舞って、自分の胴体を探して、坂東に向かって飛んで行ったのだろうと噂し合ったそうです。 ▼これまた未確認飛行物体のようですが、途中名古屋上空を飛行しているのを矢で射落し、首塚としたとの伝説やら、日本全国あちこちで目撃及び撃墜情報が伝説化しております。 ▼そして、彼の胴がある茨城県坂東市までは飛ばず、途中、今の江戸城辺り、平川(現在の神田川)の河岸、現在の将門塚(千代田区大手町)に落下したとの説も。 ▼しかし、どうやら、真相は当時の平川村の住人が、夜陰に紛れて、平安京の獄門から持ち帰り、将門塚の場所に、盛り土を築き、お祓いをし、明神としました。 ▼盛り土をしたので、そこに築土大明神と名付け、神社を作りました。 ▼この築土神社、現在も九段下駅のすぐ近くにあります。 ▼しかも、なんと近年までこの神社のご神体が、将門の首を入れて来た首桶だったのです。 ▼ちなみに、この首塚の辺りは、茨城県坂東市の神田山と同じように神田山と名付けられました。獄門であれだけ自分の体を欲しがっていた将門の霊に配慮し、その場所に彼の体の一部を持って来たのか、はたまた将門の首が座る場所が胴(カラダ)なのだよと将門の霊を説得するために作ったのかは分かりませんが、「体(カラダ)山」が転訛して「神田(カンダ)山」になったことは確かなようです。 ▼更に、この神田山は、江戸幕府を開いた時に、海が深く江戸城近くまで入り込んでいた日比谷の入江を埋め立てるのに切り崩しました。なので山では無くなり、神田(カンダ)という土地になったとのことです。 ▼最近この将門塚、かなりリニューアルして綺麗になりましたね!祟りを恐れてか、付近の工事中の時には、この塚はガラス張りのケースが周囲に施され、工事の飛来物が当たらないようにするほどの、細心の気遣いの仕方は、まるでこの将門塚は現在も生きているようでした。 ▼昔も今も、将門塚は江戸城、いや東京の守り神なのですね。
玉木造玉木造
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追記:〈2021年4月改修工事完了〉4月26日改修竣工式が行われました。没後1081年で1961年の第1回の整備以来6回目を2020年11月〜実施されておりました。正直、新しくなった『将門塚』には少し驚きました。プラスな点は、周囲との調和を考えたコンクリート敷きのかなり清々としたOpenな感じになり、敷地にもかなりの余裕を持たせ、スロープなど高齢者や♿の方にも対応したものとなっております。都内屈指のパワースポットで観光名所にもなっており沢山の方々が訪れますし、周囲の企業や新しくなったビル群とも共存する必要がありますので、これはこれでよいのかと思います。少し残念な点は、木々も移設されたようで、霊感のない私でも『凛とした何とも言えない空気感』を感じ、それが大きな魅力でもあったのですが、今回はそれがあまり感じられませんでした。こちらにお参りに来るようになってから初めてです。とは言いましても、これからますます沢山の方々が来られればそれも供養になりますので。新しくなった『将門塚』にも是非行かれてみてくださいね! 知る人ぞ知る言わずと知れた屈指の『パワースポット』です。他の方のレビューにもかかれておりまが、『ここだけは別格!』の凛とした空気感が漂ってます。夏のアツい時でも同じで、ここだけは異次元かとさえ思える場所です。パワースポットと言われる場所も数十箇所行きましたが、この感じはいまだここだけです🤯。私自身、特に霊感が強いとか、何かを感じるといったことは一切ありません。家が近いということもあり、精神的に疲れている時など訪問しては、普段の反省や癒やしの場としております。大手町のC6出口でビル1階の正面玄関を出ると目の前の場所とアクセスも完璧😄です。このビルには飲食店も入っており、どの店に入っても安心で大きな失敗はないかと思います。🚻も広くてキレイですし、スモーキングエリアもありますので🙆♂だと思います。ぜひ機会がありましたらお寄りになってみてください♪ ※将門塚はさすがに失礼にあたると考え📷は控えさせていただきました。
T KT K
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A green spot in a middle of skyscraper. And have a sacred feeling about this place. I heard about people who want to come back to Japan, they will come to worship with Taira no Masakado grave. I can't explain about those fact, but I'm the one who come to worship with that expectation too.
Kiroku KliteKiroku Klite
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Basic Info
Address
1 Chome-2-1 Ōtemachi, Chiyoda City, Tokyo 100-0004, Japan
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visit-chiyoda.tokyo
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4.5
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Ratings & Description
cultural
accessibility
attractions: Imperial Palace, Nihombashi Mitsukoshi Main Store, First Avenue Tokyo Station, Tokyo Station, KITTE Marunouchi, Marunouchi Building, Tokyo Character Street, GRANSTA TOKYO, Kokyo Gaien National Garden, Imperial Palace East National Gardens, restaurants: Tsukishima Monja Tamatoya Tokyo station, Moheji, Rokurinsha, Tokyo Ramen Street, 月島もんじゃ くうや 東京駅, Kitchen Nankai Jinbocho, Yaekita Shokudo, T’s Tantan, Yakiniku Koko Kara, Kaitenzushi Nemuro Hanamaru KITTE Marunouchi
