940年(天慶3年)6月、江戸の津久戸村(現在の千代田区北の丸公園1-1...
Read more【由緒】 天慶3年(940)。関東平定を一時は果たすも、藤原秀郷等に討たれ京都に晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりと言われています。江戸城築城後の文明10年(1478)には太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営。以来、江戸城の鎮守神として厚く尊崇されています。
【解説】 東西線の九段下駅を降りてすぐの場所にある神社です。創建は平安時代に遡りますが、観音堂に祀った平将門の首が津久戸明神になるのは神仏習合がこの時代に息づいていた事が伺えます。
江戸城周辺には平将門の首塚や神田明神など将門にちなむ史跡がありますが、首塚に伝わる伝説とは別に、築土神社側は首は超常的な力を発揮する事はなく、この近辺に埋葬された事になります。 ただ、境内や建物を見る限りでは築土神社に首塚はありません。 築土神社のホームページの将門伝説の項目を読むと、明治の国家神道により神社が明治政府に管理されるようになると、逆賊である将門を祀る事が憚られるようになったため、築土神社が将門との関係を言い出せるようになったのは戦後10年ほど経ってからなのだとか。 このため、将門関連の史跡は隠されたか、戦前から戦中にかけて失われた可能性があるでしょう。
社殿はコンクリート造りの物で、限られた敷地をビルと混在する形式で、都会的な印象を受けます。 公式ページでは昭和初期に撮影された江戸時代後期に造営された鳥居と社殿の古...
Read more平将門伝説が残るところは多いですが、築土神社もそのひとつ。 鳥居の先には近代的なビルの社殿があります。 九段下駅7出口左に折れから2~3分ほど坂を登ったところに鎮座するのが築土神社。 北の丸公園の入口、田安門からもほど近いです。
戦火で焼失するまで御神体は平将門の首桶だったそうだ。 首桶は真鍮製の六角形の厨子の中に安置されていたと思われ、この首桶は見ると目が潰れるという伝説があり、宮司すら見ることができなかったそうだ。
築土神社は、天慶3年(940)京都で晒された平将門の首を密かに持ち去り観音堂に祀り津久戸明神として創建したのがはじまり。 江戸城築城後(1478)には、太田道灌が江戸城の乾社殿を造営し、太田家の守護神、江戸城の鎮守神として崇敬。 天文21年(1552)、田安郷(現在の九段坂上)に移転し田安明神と呼ばれ、日枝神社、神田明神とともに江戸三社の一つに数えられたそうだ。 元和2年(1616)には江戸城外堀拡張のため新宿区筑土八幡町へと移転し築土明神と改称。
現在の社殿は、平成6年(1994年)地上8階、地下1階建ての「アイレックスビル」が完成し、社殿もコンクリート壁の現代的な神社になってます。 拝殿には、将門公が用いた九曜紋があしらわれ、唐破風の上には鳳凰がのってます。 ...
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