主に東日本、関東地方で、「妻・嬬」などの字が社名に入った場合、たいていは記紀に言う倭建命(やまとたけるのみこと)の走水に於ける出来事を念頭にいておくと、弟橘姫(おとたちばなひめ)が伴いまして、そうなんだなぁ,と導かれる送りなのですが、この妻戀のお社も、その通りでございまして、この2神におこんこんさまの倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を並べて、合わせて主祭神としてお祀りしています。この、妻戀(つまこい/つま"ご"いと濁らない)さまは、発祥を4世紀に遡ると由緒されており、近世前期にはすでに古文書に記述がみられるそうです。空襲で焼けて、復興に際して寄進が順調に推移して、昭和46年に当時の大蔵省から境内地の払い下げを受けたあと、震災でもあちこち壊れたものの、ご神徳により復旧相成り、最近とくに、社名そのものが売りとなって、参詣崇敬者が急激に増えたようです。江戸のむかし辺りまで、このお社の一帯は水田耕作が行われていた地域で、保食のご利益をともに崇敬するため、おこんこんさまを祀り加えたそうです。境内には本殿とは別に、お稲荷社が建立されています。この、妻戀とゆう名は、付近の「妻恋坂」にも古くから用いられており、地理的に神田明神と湯島天神の南北のほぼ真ん中にあるお社として君臨しています。授与品は案の定、倭建命と君思ふ弟橘姫の絵馬、社字に肖りハートイラストが刺繍された「恋守り」などが用意されてよく売れています。社殿は西を背に東面して建てられ、参道入り口鳥居は南面しています。起伏の多い台地の東端に位置しているため、境内地へは前面道路より階段で上がって鳥居を抜け、境内入って西へ折れると左(南)に本殿、右(北)に授与所の建物があります。神楽殿兼用を前提にした社務所の下が引っ込んだ授与所なんですが、軒として2階を深くとり、雨に濡れないで授与所の利用ができます。だからベンチもあれば、絵馬掛けもみんな軒下です。これは社殿建築に際してよく考えてあると思います。授与品は願意を凝縮して絞り込んだマルチラインナップにされており、何でも効くイメージです。場所が秋葉原に近いので、今後はキャラクターもののお守りも数点揃えておくと、初穂料増収に寄与するはずです。ただ、クルマのお祓いをできる余地がありません。2丁目に湯島御霊社があり、宮司さんここと兼務されているようですので、御霊社さんの境内でなんとかできるんじゃないでしょうか。地下鉄銀座線の末広町駅3番出口を出て、そのまま蔵前橋通りを西へ進むとその名も「妻恋坂」交差点から「妻恋坂通り」に入りますから、坂(緩い)を登って清水坂を北へ折れて一つ目の角を右です。クルマで行かれる方は境内にはモータープールは無いので、神社周辺にいっぱいある時間貸しを利用してください。首都高1号線下り本町出口で降りたらそのまま昭和通りを北上、蔵前橋通り交差点を西へ左折したらその先に妻恋坂交差点が見えてきます。1号上りで来る方も同じ。蔵前橋通りを西へ入って進めば着きます。お休みの日の午後は中央通りがホコ天なので、前もって情報を確か...
Read moreA shrine that's quiet and off the main road. Only a couple of people were there when I visited, it's a well kept and clean shrine!
There is a goshuin 御朱印, they have 4 different options, two of which are two page wide and given as paper. The other two can be directly written into the book, the only difference between the two is the colour of the ink....
Read more中々趣きがあります。
妻恋神社の話
日本武尊は、「古事記」や「日本書紀」に登場。父王である景行天皇より命ぜられ、体格もよく武力に優れていた日本武尊は、日本(まだ日本とは呼んでいなかったが)の全国統一を目指して、西や東を平定していった。
東方十二道の荒ぶる神や賊の平定のため東へと旅だち、東京湾を走水の渡り(現横須賀市)から千葉に向けて船で渡る時、途中暴風雨に遭い、船はもてあそばれ沈みそうになった。 同行の妃・弟橘媛命が「夫の身代わりとして海に入り、海の神の心を鎮めましょう」と言って、「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」(焼津で自分を守ってくれた尊への思いが込められている)と歌を詠んで海に身を投じた。 海は鎮まり、尊は房総に上陸ができ、東国を平定し、大いに勲功をあげることができた。
帰路、上総の国碓日嶺に登り東南の方を望み「吾妻者耶・・・・・」と恋い慕いたもうたとの意を取って「妻恋明神」と号した。 当神社はその時の行宮(野営陣地)の跡と言われてる。 「あづまはや」から関東のことを「あづま・あずま」というようになったとも。
また、「ユシマ」は「聖なる水際の地」という意味があるともいわれ、この地は早くから開かれ、低地では稲作が行われており、そこで、五穀の神の稲荷が祭られ、妻恋稲荷となった。 倉稲魂命は別名は御食津神で三狐神に通じキツネに結びつく。
戦災で失われていた鈴も昭和52年に戻り、また江戸時代に使われていた縁起物の版木も偶然に見つかり、頒布が一時期再開された。 平成23年東日本大震災に伴う本殿屋根崩壊では多大なる奉賛により修復を完了、復興祈願の気運により平成25年に奉納された日本画を元に授与品「吉夢(よいゆめ...
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