59.和田塚
源頼朝の死後、北条家が実権を握っていく過程について: <流れのポイント>:源頼朝の有力御家人の排除。 1180年(治承4)12月 大倉御所は造営。 1199年(建久10) 頼朝、没する(53才)。 1200年(正治2) 梶原一族滅亡。 1202年(建仁2) 源頼家、征夷大将軍になる。 1203年(建仁3) 比企一族滅亡。 1204年(元久元) 頼家、修善寺で殺害される(23才)。 1205年(元久2) 畠山一族滅亡。 ・北条義時執権となる。 1213年(健保元) 和田一族滅亡。 1215年(健保3) 北条時政、没する(78才) 1219年(健保7) 正月27日、実朝(28才)、公暁に殺害される。 公卿も追手に殺害される。 源氏三代で滅亡。 1219年(承久元) 12月24日、大倉御所が焼失。 1220年(承久2) 年が改まり、火災は多発した。 1221年(承久3) 後鳥羽上皇、倒幕の兵を集め義時追討の命を出す。 (承久の乱) 北条義時は大勝し、上皇は降伏。 1224年(貞応3) 北条義時、没する。(62才) 1224年(元仁元) 北条泰時、執権となる。 1225年(嘉禄元) ・北条政子(69才)、没する。 ・大江広元、没する。 ・九条頼経(8歳)、宇津宮辻子の新御所に移る (宇津宮辻子幕府) ・九条頼経、征夷大将軍となる そのころには、北条氏に対抗できるような有力な御家人は三浦氏が残るのみになっていました。 泰時はすでに幕府の多くの権限を掌握していて、対三浦氏の対戦準備を行いました。 ・その1. 鎌倉内の道の拡張や施設の配置・改修を行い自軍側の移動や展開を行いやすくしました。 ・その2. 敵方の移動は監視しやすく妨害しやすくし、また勢力の分断や懐柔を行いました。 ・その3. 1236年(嘉禎2 )、将軍御所は宇津宮辻子御所から若宮大路御所へと移されました。 この若宮大路御所の北側には、北条執権邸が造営されました。 このことにより、北条氏は将軍と将軍御所を掌握しやすくなった。 1246年(宝治元) 北条氏によって、三浦一族と郎党五百人、法華堂(後に白幡神社)で討死した...
Read more2024/9/8 和田義盛については多くが語られているので、塚の碑について記す。 ①石碑 和田一族戰没地(板状方形) 「和田一族戰没地 ・鎌倉保勝會長 男爵 沖守固 〜明治四十二年九月二十五日竣工」 ー1,909年建立。 鎌倉保勝會:明治18年に設立された史跡名勝等の保存を目的とした民間団体。 沖守固(おき もりかた):幕末〜明治の武士(鳥取藩士)/絵師/内務官僚/政治家、1,881年11月神奈川県知事。勲章等1,900年男爵/位階 1,906年従三位。
②石碑 和田義盛一族墓(自然石) 「和田義盛一族墓 ・明治三十四年二月十八日 〜古郡保忠後裔 古郡静...
Read more和田合戦で敗れた鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公や、与力した中村党や、恐らく戦った北条方方の武士達のも眠っている場所。 忠義の武士達の供養塚。 昔はもっと大きい盛り土だったそうだが、風化して平たくなっている。 表面にも風化して細かく成った骨片が石みたいに少し残っていたりするのは司馬遼太郎さんも紹介している有名な話。
怖い場所ではなく、己の信念に従い正義を貫いた勇敢な武士達が眠る大切な場所。 神社の様に聖なる場所であり、御寺の様に先人に今日の発展の基礎を築いて下さった事を感謝する場所。 又、和田義盛公や中村党の土肥家の...
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