駒札: 夏目漱石の句碑
木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てゝ 男女哉 漱石
句碑は昭和四十一年(1966)十一月、「漱石会」が明治の文豪夏目漱石(1868~1916)の生誕百年を記念して、句にゆかりの現地に建てた。 漱石は、生涯、四度にわたって京都に訪れた。最初は明治二十五年(1892)七月、友人で俳人の正岡子規とともに、二度目は明治四十年(1907)春、入社した朝日新聞に『虞美人草』を連載するためで、三度目は二年後の秋、中国東北部への旅の帰路であり、四度目は大正四年(1915)春、随筆『硝子戸の中』を書き上げた直後であった。 このとき、漱石は、画家津田青楓(せいふう)のすすめで木屋町御池の旅館「北大嘉(きたのたいが)に宿泊、祇園の茶屋「大友(だいとも)」の女将磯田多佳女(いただたかじょ)と交友を持つが、ある日、二人の間に小さな行き違いが起こる。漱石は、木屋町の宿から鴨川をへだてた祇園の多佳女を遠く思いながら発句を送った。句碑にある句である。 この銘板は、平成一九年(二〇〇七)十月、京都での漱石を顕彰する「京都漱石の會」(代表・丹治伊津子)が発足したのを機に建てた。 平成二十年(2008)四月 京都漱石の會 京都市 Piece tag: Natsume Soseki's monument
Take an inn in Kiyamachi and ask Mr. Mitaka Kawamukai Across the spring river, men and women, Soseki
The monument was built in November 1966 by the Sosekikai in commemoration of the 100th anniversary of the birth of the Meiji literary master Natsume Soseki (1868-1916). Soseki visited Kyoto four times in his lifetime. The first was in July 1892, with a friend and poet Masaoka Kouki, and the second was in the spring of 1907, to serialize "Keibi-Kusa" in the Asahi Shimbun, which I joined. The second time was the return trip to northeastern China in the fall of two years later, and the fourth time was in the spring of 1915, immediately after writing the book "Inside the Glass Door". At this time, Soseki stayed at the inn "Kita no Taiga" in Oike, Kiyamachi, at the recommendation of the painter Seifu Tsuda, and was the proprietress of the teahouse "Daitomo" in Gion. I have a friendship with Takajo), but one day a small misunderstanding occurs between them. Soseki sent her utterance while thinking far away from the Takajo of Gion, who had sunk the Kamogawa from the inn in Kiyamachi. It is a phrase in the monument. This nameplate was built in October 1997 when the "Kyoto Soseki no Kai" (representative, Itsuko Tanji), which honors Soseki in Kyoto, was launched. April 2008, Kyoto Soseki no...
Read more夏目漱石は四回、京都を訪れている。また漱石は誰に恋心を寄せたのであろうか⁉︎ それは漱石最後の恋といわれている・・・。
一回目は明治25年(1892年)七月に友人の正岡子規と共に訪れている。 二回目は明治40年(1907年)入社した朝日新聞社の「虞美人草」を掲載する為。 三回目は明治42年(1909年)中国北東部への旅の帰路に寄る。 四回目は大正4年(1915年)随筆「硝子戸の中」を書き上げた直後。この時、画家「津田清風」のすすめで、当時ここ木屋町御池にあった旅館「北大嘉」に宿泊しており、祇園の茶屋「大友」の女将「磯田多佳女」に初めて会い好意を寄せてしまったのである⁉︎
漱石は木屋町の宿から祇園の多佳女を思いながら、悶々とした思いで句を送っていたのである⁉︎ しかし、些細な事での多佳女との行き違いや漱石の妻が京都に訪れた為に、実らぬ恋となったと言われている。今はその思い出の句が...
Read more「~木屋町に宿をとり川向の御多佳さんに~」「春の川を隔てて男女哉(かな)」漱石。 漱石は大正四年の春に京都を訪ね、1ヶ月ほど過ごしたが、木屋町三条を上った場所で宿をとり、鴨川を隔てて縄手新橋のお茶屋「大友」の女将である「多佳女」にこの句を送ったという。 ちなみに「大友」は吉井勇の「かにかくに祇園は恋し寝るときも‥‥」の歌の舞台とのこと。鴨川の対岸にいる御多佳さんへの漱石の想いが伝わるような歌です。 さて句碑は現在、御池大橋の西詰の南側にあります。かつては橋のすぐ横にありましたが、道路工事などで私の知る限りでも2回は場所が動いています。一時期は石碑のみが草のなかに埋もれて、文字も読めない状態だったこともありました。 現在は歩道の植栽の中にあり、案内板もあり、文字も読めます。但し草が...
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