お寺の山号は泉谷山(せんこくざん)。この辺りは泉ガ谷(いずみがやつ)と呼ばれていたので、これが山号になったようです。
境内は谷戸を造成して段々畑のように作られており、鎌倉時代の雰囲気そのままのお寺。鎌倉駅からも、鶴岡八幡宮からも徒歩15~20分程で近いのですが、訪れる人も少なくゆっくりと参拝できます。
すぐそばのJRの踏切を渡った目の前は英勝寺です。英勝寺や海蔵寺とあわせて回ると良いかも知れません。
山門をくぐると広い平坦な境内が広がり、すぐ右手にお手洗いと鐘楼、不動堂があります。少し進んだ左手に客殿と庫裏があり、その先の階段を登った高台にマキの大木(もう1本の木はビャクシン)を前にして仏殿(阿弥陀堂)があります。正面の石段は苔むしており、通行禁止。右手に新しい階段があり、そちらを登ります。
拝観日は木曜日・土曜日・日曜日・祝日のみ(雨天・8月は拝観休止)。それ以外の日は階段を上がった所までしか行けません。
拝観日であれば階段を登った高台にある仏殿と、その隣の収蔵庫の中にある阿弥陀三尊座像(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)、さらに山を登り冷泉為助(れいぜいためすけ)の立派なお墓(宝篋印塔、ほうきょういんとう)をお参りする事ができます。
元々は源頼朝の願いにより文覚(もんがく)上人が建立したとも伝えられていますが、鎌倉幕府 第5代執権・北条時頼と第6代執権・北条長時が開基となって創建したそうです。
拝観日に合わせて、ご住職のお話を伺いながら参拝する事を絶対オススメします。200円必要ですが、良心的な金額だと思います。阿弥陀如来座像(中尊)の着衣に施された「土紋」装飾の説明や、「浄光明寺 敷地絵図」を元にしながら境内が当時と変わらずそのままである事などが聴けます。収蔵庫の中には三尊の他、矢拾い地蔵も安置されています。
冷泉為助のお墓へ行くには、収蔵庫の奥隣にある観音堂の横から細くて急な石段を登ります。雨の後など滑りやすい時もあるのですが、距離は大してありません。途中、開けた平坦な場所がありそこの「やぐら」に網引地蔵が置かれています。その左手にある、文字が薄くなっている「冷泉為助墓」の看板の横の階段を登ったところ。お墓の周りは人が4~5人もいると窮屈な感じがする広さで、木々の間から少し由比ヶ浜が見られます。
さらにその先には、廃寺となった多宝寺の長老であった覚賢のお墓である雄大な五輪塔、覚賢塔(かくけんとう)があります。高さ3m22cmあると言われ、毎年4月の「鎌倉まつり」の期間のみ公開されているようです。
冷泉為助は近くの藤ガ谷(ふじがやつ)に住み鎌倉の歌壇を指導したので藤谷黄門といわれ、お寺の入口にその碑が建てられています。
ご住職の説明を聴き、冷泉為助のお墓まで参拝すると所要時間は40~50分程度だと思います。拝観日以外でも、御朱印は庫裏でブザーを鳴らしてお願いできます。大抵どなたか丁寧に対応してくださいます。
パンフレットの境内図には不動堂の裏手の高台に、稲荷社が書かれており、不動堂の前から見上げると木々の間に赤いのぼりが見えますが、境内からは行けません。浄光明寺の鎮守社かなと思ったのですが、こちらの鎮守社は寿福寺の近くにある八坂神社(相馬天王)だったそう。
「鎌倉まつり」(4月...
Read moreたまたま、近くまできたので立ち寄ったところ国の重要文化財:阿弥陀三尊像(阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩)が一般公開されていました。ラッキーです!山門を通り、客殿脇の道を上がったところで拝観料を納めると、ご住職?の案内で説明をして頂きました。 元々、阿弥陀三尊像は阿弥陀堂に置かれていたものを収蔵庫の完成に合わせて移したそうです。いま、阿弥陀堂にあるのは過去、現在、未来を表す三世仏(阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来)で、総本山、泉涌寺の三世仏を模して作ったそうです。本来、弥勒様は菩薩ですが、総本山に合わせて如来と呼んでいるそうです。この阿弥陀堂は、桟唐戸や花頭窓などを持つ唐様建築ですが、唐様か和様かを簡単に見分けるには床を見て、菱形状に並んでいれば唐様とのことでした。 さて、ご本尊の阿弥陀如来像ですが、肩、袖などにある浮き彫り状の装飾は、木を彫ったものではなく、土を型抜きした紋様を貼り付け、ニカワで固めた、「土紋」という鎌倉独自の技法だそうです。また、両手を胸前に挙げる説法印を結んでいますが、阿弥陀如来には、手の位置、指の形から上品、中品、下品☓上生、中生、下生の九品があるとのことでした。 あと、収蔵庫には、足利直義の念持仏と伝わる矢拾地蔵があり、戦のさなか直義のために、矢を拾い集めたそうです。このお地蔵様は、少し前のめりになっていますが、これは、すぐに救いに行けるように、この姿勢になっているそうです。 また、収蔵庫を建てる際、ここにあった観音堂を奥に移したそうですが、調査を行ったところ、かつて、ここには、江戸時代のお墓があり、英勝寺が尼寺であったことから、男性を埋葬できず、こちらへ葬ったのではとのこと。さらに、その下には、礎石が見つかり、かつては伽藍が建てられていたことが分かったそうです。鎌倉国宝館に保管されている室町当時の浄光明寺敷地絵図のコピーで、当時、何がどのように配置されていたかまで詳しく教えて頂きました。 これ以外にも、様々なお話を伺い、気がつくと2時間も境内にいました。思わず愉しいひとときを過ごすことができました! (蛇足:鎌倉、室町幕府の庇護を受けた浄光明寺は、かつて横須賀線くらいまで寺所があったそうですが、江戸時代になると窮乏、逆に江戸幕府の庇護を受けた英勝寺が隆盛となったそうです。しかし、明治になり、庇護のなくなった英勝寺も切り売りせざるを得なくなり、そんな経緯で英勝寺の惣門を譲り受け、浄光明寺山門にしたそうです) ーーーーー 鎌倉六阿弥陀仏、鎌倉十三佛第九番「勢至菩薩坐像」、鎌倉二十四地蔵尊第十六番「網引地蔵」、第十七番「矢拾地蔵尊」、鎌倉三十三観音第二十五番千手観音、弘法大師相模二十一ヶ所霊場第六番のご朱印を頂きに参拝しました。(よくもまぁ何度も行ったものだと我ながら驚いています)。 山門を入ると左手に大きな客殿があり、その左にある庫裏でご朱印を頂きます。右手には不動堂があります。客殿と不動堂の奥にある階段を上ると阿弥陀堂があり、その左側に収蔵庫、その奥に観音堂があります。阿弥陀堂をお参りした時に、ちょうどご住職がいらっしゃり、阿弥陀堂のまえの大木(イヌマキ)が創建当時に植えられたとされ(推定樹齢750年)、鎌倉市指定文化財となっていることを教えて頂きました。写真はイヌマキの種子で、これを持っていると夫婦円満のご利益があるとのことで、落ちていたものを頂いて帰りました。浄光明寺は、岩船不動堂から横須賀線わきの細い道を鎌倉駅方向進んだ先の奥まったところにあります。観光客も少なく...
Read more浄光明寺は、鎌倉末期の太平記の時代に、幾度と無く舞台となったお寺として有名です。あまり知られていませんが、足利尊氏の義理の兄である赤橋守時(北条一族、一時は執権職も務めた)のお墓があります。 また、ここは足利尊氏が乱(中先代の乱)の鎮圧後、論功恩賞を勝手にして、後醍醐天皇から怒られた後に蟄居していた場所でもあります。 ここで尊氏は弟の直義に説得され、後醍醐天皇を裏切り、建武の新政から室町幕府設立へと奔走し出すという、歴史の転換点の地でもあるのです。
Joukoumyouji is famous as a temple that has become a stage for many times during the late Kamakura period, the so-called Taiheiki period. It is not well known, but there is a grave of Moritoki Akahashi who is a brother-in-law of Takauji Ashikaga and who has served as the top of the Hojo family. At the same time,This place is also a turning point in history,Because Takauji Ashikaga is persuaded by his younger brother Naoyoshi, betrays the Emperor Godaigo, and begins to establish a...
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