大乗山薬王寺といい日蓮宗のお寺になります。 御本尊は久遠実成釈迦牟尼仏で、身延山久遠寺が本山になります。 日蓮宗には珍しく徳川家の家紋(三つ葉葵)の使用が許されているお寺になります。 弘安五年(1282年)十月に病床にあった日蓮聖人は自身の枕元に経一磨(きょういちまろ)という十三歳の少年を呼び寄せました後の「日像聖人」その人である。 日蓮聖人はこの経一磨の菩薩としての力を見抜かれて「法華経の業者に降りかかる多くの法難にも負けない精神力・体力を持って帝都(都:京都)の布教をせよ」と懇ろに厳命された。 日蓮聖人の命を受け日像聖人(経一磨)は迫害を覚悟しそれに耐えうる為と、鎌倉由比ヶ浜において百日間の大荒行を敢行されました。 荒行を終えられた日像聖人が療養場所を求め辿り着かれた場所がこの地であったとされる、時に永仁元年(1293年)のことであるこの地にはかって元真言宗に属していた梅嶺山夜光寺があったが日像聖人が当時の住僧を論難し改宗して法華経受持の寺院とした。 その後になって、日達聖人が有力な外護者の庇護・援助を得て衰微していた当山を忽ちにして七堂伽藍完備の立派な寺院となして山号寺号を大乗山薬王寺と改称した。 寛永年間(1624年~1644年)に非業の最期を遂げた徳川幕府第二代将軍徳川秀忠公次男、駿河大納言徳川忠長公の追善供養の為に奥方松孝院殿(織田信長の孫で織田信良の娘)は莫大な金子(きんす)と広大な土地を寄進し三千坪の境内に立派な諸堂を造営したが享保五年(1720年)に諸堂を悉く焼失してしまった。 駿河大納言徳川忠長公供養塔の存在により徳川家・蒲生家所縁の寺として寺紋に三つ葉葵が用いられていた為一般人の埋骨を許さない格式を持つ由緒あるお寺であった。 慶応三年(1867年)の大政奉還や明治初期の尊皇攘夷論の台頭が廃仏毀釈の流れを作り寺院の惨状が広がる中で当山の看坊(公卿あがりの僧)が什宝等を売り払い遂には無住職の時代が出現してしまいました。 大正十三年(1924年)第十五世海榮上人以降復興に着手して二代七十余年のたゆまぬ尽力により現在の山容...
Read more古には夜光寺と呼ばれ真言宗だった。 現在は日蓮宗であり千葉家の館と隣接する。 名前の由来は・・・ 向かいの山が光る とか 水が涌く とか ・・・自然現象が由来らしい。 千葉家が信仰した北斗星信仰の古来の天体観測と、恐らく今は入れない“扇の井”の存在が由来だろう。 井戸掘ると濁り水や塩分濃度高い水が出てしまう鎌倉市街において、数少ない飲用水に耐える水脈は貴重だった。 また、当時の尾根は砂岩剥き出しに城塞化造成されており、その山の端(は)から何らかの天体が重なり輝いて昇る姿が美しかったんじゃないだろうか。 浄光明寺の裏山が妙見大菩薩=北斗星信仰の信仰対象で、その場として始まったのかも知れない。 浄光明寺側にも“泉の井”がある。 名前も夜光寺と通じる物がある。 その信仰対象とおぼしき山には日蓮宗と縁深い千葉常胤公と相馬師常公の御廟所がある。 千葉一族の邸址と亀ヶ谷を挟んで反対側の山裾全体も嘗(かつ)ての広大な寺跡と思われ矢倉群が私有地に沢山現存する。
薬王寺は鎌倉時代から数百年後に再度繁栄する。
江戸時代に入ると伊予松山藩主蒲生忠知公の正妻の松寿院様と御息女の松嶺院様の供養塔が建てられ菩提寺となる。 蒲生忠知公は祖母の相応院殿が織田信長公の御息女。実母の正清院振姫が徳川家康公の息女。 更に忠知公正妻の松寿院菊姫は陸奥国平藩主内藤政長公の御息女で、この薬王寺に御廟がある。 内藤政長公の菩提寺は薬王寺と鎌倉市街を挟んで対極線にある材木座の浄土宗大本山の光明寺と非常に近い。
更に薬王寺は三代将軍徳川家光公の御実弟である駿河国駿府城主徳川忠長公の供養塔もあり日蓮宗における菩提寺に成っている。 徳川忠長公正妻の織田昌子松孝院(久姫)様による徳川忠長公供養の為の茶湯料として寺領三千石の寄進が為(な)され、忠長公の供養塔が置かれ南関東における徳川忠長公の菩提寺と成った。
薬王寺は寺紋も日蓮宗には珍しく徳川家の家紋の使用が許されている。
しかし寺の縁者を見るに、徳川家光公にとって不都合な織田信長公の血筋を供養する寺...
Read more2016/05/01に参拝した。いつも薬王寺は、亀ガ谷~山ノ内の行き来で知ってはいたが、なんとなく素通りしていた。今日は時間が出来たから、壽福金剛禅寺御開帳の後、化粧坂を登って銭洗い弁天の連休初日の賑わいを撮影し更に登って葛原岡神社と日野俊基墓前に挨拶してから鎌倉山の常場所で昼食後、化粧坂を下って海蔵寺の参拝した後薬王寺に参拝した。もともとは真言宗に属し、梅嶺山夜光寺(ばいれいざん...
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