I walked out of the temple. I made the left turn at the second corner. I climbed another hill. Halfway up the hill, I found 2 caves behind a vacant lot. Every holy place in Kamakura has a cave. Ancient people there might have done open-air burials in those caves. The vacant lot was the site of Tosho-ji Temple, the family temple of the Hojo Clan.
Tosho-ji Temple Site Nitta Yoshisada (1301-1338) raised his army in Kozuke Province with 150 strong cavalry on May 8th, 1333. He was to meet the 100,000 strong cavalry of the Kamakura Shogunate somewhere between Kozuke and Sagami Provinces. The shogunate had been established by the Minamoto Clan, beating down the Taira Clan, but had been controlled by the Hojo Clan, who were the branch clan of the Taira Clan, after the 4th shogun. The Nitta Family was one of the powerful branch families of the Minamoto Clan. Yoshisada had pride in his bloodline and content against the Hojo Clan. When he arrived at Tone River, the number of his cavalry increased to 7,000 strong. After crossing the river, the number jumped to 207,000. He defeated the garrisons of the Kamakura Shogunate along the Iruma River on May 11th. Before daybreak on May 21st, Yoshisada finally stormed into Kamakura, and cornered the Hojo Clan into their family temple, Tosho-ji Temple, where hundreds of clan members killed themselves. After the 2 caves, I found the cave where Hojo Takatoki (1304-1333), the 14th Regent of the Kamakura Shogunate, was said to have killed himself. It was still up the hill covered with a growth of weeds. Even in the depths of winter, the scene reminded me of a haiku poem Matsuo Basho (1644-1694) composed: Summer weeds Which cover The site of...
Read more88.東勝寺跡 アクセス:JR横須賀線「鎌倉駅」東口から徒歩16分。 鶴岡八幡宮前の鳥居から右折し,横大路を進むと宝戒寺(北条執権邸舊跡-北条高時が最後に住んでいた)あります。お参り後、右側(材木座海岸方面・小町大路)に進み、左側2本目の路地を左に入り(カーブミラーがあり、案内板があります)進み、滑川にかかる東勝寺橋を渡り、進むと左側に「東勝寺跡」があり、「国指定史跡 東勝寺跡」と書かれた案内板があります さらに進むと「高時切腹やぐら」があり、「東勝寺旧蹟」と書かれた石碑が建ってます。 ・現在は、廃寺となっており、土地の上には何もなく更地で、国の指定史跡となり、フエンスで囲まれ立入禁止になっています。 <歴史> ・1225年(嘉禄元年)、執権となった北条泰時はこの葛西ケ谷の谷間に当寺を築き、北条一族の菩提寺とした。 ・この寺は、菩提寺であると同時に有事に備えた城塞の意味をもった寺院であったと推測される。 ・1323年(元亨3年)北条貞時(高時の父)十三年忌供養には、当寺の僧衆53名が参加しており、諸寺の僧衆のうちこの数は10番目に多く、かなりの大寺であったことがわかる。 ・1333年(元弘3年)、後醍醐天皇に呼応して鎌倉に攻め寄せた新田義貞の軍勢を迎え撃つべく、自館を出た北条高時ら北条氏一門が当寺に篭もったが、なすすべもなく自ら火を放って自刃した(東勝寺合戦)。 『太平記』によると、自害した者は、一族・家臣283人、あとに続いた兵も合わせて870人余であったという。 この時、建造物は焼失したが、直ちに再建された。 また、北条高時一門が滅亡したのを悼み、現在の藤沢市に新たな東勝寺が建てられた。 <発掘調査> ・1975年(昭和50年)・1976年(昭和51年)および1996年(平成8年)・1997年(平成9年)に、寺跡の北側と中央の谷部分を中心として発掘調査が実施された。 ・出土した陶磁器をはじめとする遺物の年代から、史書とおり元弘3年当時の実在が確証される。 ・調査によって、「鎌倉石」の切石を積み上げた石垣、切石敷きの坂道、岩盤を掘削してつくった排水溝、また、門跡と推定される地覆石の列や礎石建物、掘立柱建物(各1棟)など、格式を誇る仏教寺院の遺構群を良好な状態で検出した。 ・遺物では、宋・元代の獣足青磁香炉・獣足褐軸香炉・天目茶碗(中国産)、古瀬戸(尾張国産)の朽葉文の施された壺などが見つかっており、いずれも権力者に庇護された寺院の調度品にふさわしいものです。 ・発掘で遺骨の発見はなく、新田勢や時宗の僧らによって遺体が処理されたと考えられている。 <伝承について> ・鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷奥山頂部には、「宝戒寺二世普川国師入定窟」と伝える巨大なやぐらを中心に「釈迦堂奥やぐら群」と称する多数のやぐら群が存在した。 ・やぐら群には多量の生焼けの人骨があった。昔から東勝寺での戦死者の遺体をこのやぐら群に葬ったとの伝承があった。 ・昭和40年代の宅地開発で、「元弘三年五月廿八日」の銘のある五輪塔の一部が発見された。まさに東勝寺合戦の初七日の供養をしめすものであり、伝承が事実であったことがわかった。 ・やぐら群は宅地造成によって主要部が破壊されたが、一...
Read more東勝寺(とうしょうじ)は、鎌倉・鶴岡八幡宮の南東山裾に、鎌倉時代に開かれた禅宗のお寺です。
鎌倉幕府第三代執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)の支援を受けて作られたお寺で、西側に流れる滑川(なめりかわ)の岸を削り落として切り立った崖状にし、東側の急な山地との間を削って平場を作っており、まるで要塞のような構造になっています。北条氏邸宅のすぐ東側に位置していることからも、政権の最高権力者を守ることを目的として建てられた寺だと考えられています。
鎌倉時代末期の1333年、新田義貞が鎌倉を攻めた時、執権だった北条高時(たかとき)は東勝寺周辺に逃れましたが、最後には自ら寺に火をかけ、一族と家来もろとも、総勢870人以上がこの地で自害。鎌倉幕府は滅亡しました。 この870人余りをまとめて祀った首塚が現在も敷地内に残されており、「高時腹切やぐら」と呼ばれています。
その後すぐに寺は再建され、室町時代には関東地方を代表する大規模な寺にまで復興しました。 しかし16世紀の後半(室町時代末期から安土桃山時代)には、理由は定かではありませんが、既に廃寺となっていたことがわかっています。
東勝寺跡は、北条氏滅亡の地であること、他の寺院には見られない城郭的な機能を持っていることが特異的であり、また禅宗のお寺としての格も高く、建物が建っていたことを示す遺構などの保存状態も良い、ということで、平成10年(1998年)、国の史跡に指定されました。
2021.2...
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