室町幕府2代将軍足利義詮菩提寺。 並ぶ二基の墓、義詮の横に並ぶ、 楠木正行について書きます。 中世。我が国は(皇位継承争いから)北朝と南朝に分かれ、それぞれが天皇を奉じ、長く戦い続けた内乱の時代でした。 足利氏が擁する北朝は、京都に陣し、優勢にみえるものの、南朝は三種の神器を持って吉野に逃れたので、北朝はこれを取り戻さなければ正統が証明できません。逆に南朝はそれを奪われたら正統が証明できなくなります。そのため、お互い必死で争い、寝返り寝返られ、数多くの戦いが起きました。 南朝・楠木正行は名将・楠木正成の嫡男ですが、父に劣らぬ非常に有能な武将で、北朝を連戦打ち負かし、北朝から「不可思議の事なり」(=「想像を超えるほど信じられない」)と評されるほどの猛将でしたが、四条畷の戦いで、足利幕府の主力を率いた高師直と戦い、戦死します。 そして父の楠木正成も、湊川の戦いで足利軍に敗れ、弟と刺し違えて壮絶な最期を遂げます。太平記「正成兄弟討死事」 亡くなる際に、「七度生まれ変わって朝敵を討つ」(七生報国)と言い遺したほど、実直で忠義な武将でした。 楠木正成は河内出身の武士でした。大阪河内、金剛山の西、千早赤阪村の出身と伝わります。南朝・後醍醐天皇の忠臣であり、大阪河内の山中で育ったため、ゲリラ戦や奇襲が非常に得意でした。主力の一人として後醍醐天皇を支えてきました。 が、彼はゲリラ戦でこそ本領が発揮できるタイプでもありました。 のちに、南朝の朝廷(公家)に、「ゲリラ戦や奇襲は卑怯だ。正々堂々と正面から戦え」と素人戦法を命じられたともいわれ、神戸・湊川の隠れるところもないような広い戦場で、敵より少ない兵力で戦い、戦死しました。 ちなみに、旧・小学校唱歌「青葉茂れる桜井の」は彼ら父子の最後の別れのシーンの逸話からなるものです。 一方、北朝の天皇を奉じるのは足利氏ですが、この2代・足利義詮はなんと、南朝・楠木正行のファンだったそうです。 初めて見た時は、これこそ「不可思議の事」で、ちょっと待て、正行はおたくの先祖が殺した武将だぞ??といいたくなりましたが、、、よく考えると、、その後。 楠木正成の末の息子・楠木正儀は、父と兄の戦死を受け、元服前の若さで即、楠木氏の家督を継ぎ、引き続き亡き父に代わる主要戦力として南朝を支えます。 彼もまた、父や兄に全く劣らぬ有能な豪傑で、戦力的にもまさに南朝のキーマン、何度も京都を奪還した勇将でした。 ある時、京都奪還時に、将軍義詮を守る細川頼春を討ち取ります。すると。普通ですと。頼春の息子らは「父の仇」を討とうとするはずですが…。なんと、頼春の息子・細川頼元(管領)は、父の仇を討つどころか、(父を討ち果たした凄腕の)楠木正儀のファンになり、正儀が(南朝のだらしなさに愛想を尽かして)北朝に寝返った時など、嬉々として手引きをしたと伝わっています。その後、共に出陣したりもしています。 頼元の兄・頼之も、正儀を右腕としました。 楠木が抜ければ南朝の戦力が明確に落ちるので、北朝の天皇も朝廷も嬉々として楠木正儀を迎え、南朝にいた時と同等の高い位の要職を与えます。南朝は必死になって彼を呼び戻そうとし、どっちにつこうが寵遇は約束されています。まるで綱引きのように南北朝双方から熱望される、時代の実力者でした。 彼は、洞察力に長け、戦に強いだけではなく、人情があり人望もあったと伝わります。そして、多くの戦を勝ち抜き、父や兄達と異なり、乱世を生き抜き、南北朝合一前ながら、どうやら無事天寿を全うしたようです。 (どんな時も忠義一筋の父兄と異なり、ある意味自由な考えの現実主義者でした。戦前は一途な忠義者が良いとされ、明治13年になって楠木正成が正一位の位を授かるなど、父・正成のほうが非常に持ち上げられ、正儀の評価は分かれましたが、むしろ、乱世には正儀のような臨機応変なたくましい人物こそが、良き見本となるのかもしれません。) 足利義詮と楠木正行、細川頼元(+頼之)と楠木正儀。 南北朝時代はわが国有数の長き内乱でした、おびただしい血が流れました。有事にはモラルも変わります。その頃、このように、「敵味方を超えて」器量豊かな武将に憧れることがあったようです。まさに乱世でした。 足利将軍の菩提寺に敵同士のお墓が並ぶ。まさに「実に乱世ゆえの」の...
Read moreAn absolute gem of a find in the Arashiyama area. Had one of the most jaw-dropping autumn gardens I have ever seen - was stunned from the very moment I walk through the entrance, and could not believe what I was looking at for the entirety of the 1 hour I was there. Was there on 10 Dec 2024 first thing in the morning when it opened, and there were few other visitors. You could also get your goshuin at the counter right next to the entrance. The garden is compact but so stunning you would not wanna leave. Highly recommend if you’re in Kyoto during momiji...
Read more京都嵯峨野にある臨済宗の寺院です。 紅葉の美しさに定評がある当寺院は、テレビ・雑誌・書籍等のメディアで幾度となく紹介されました。庭園の写真がジグソーパズルやカレンダーに使用されることもよくあります。また、秋の紅葉シーズン以外でも、四季折々の花が咲き、風情ある庭園が楽しめます。 宝筐院は、平安時代に白河天皇(1053~1129)の勅願寺として建てられました。勅願寺とは、勅願によって鎮護国家・玉体安穏のために建立された寺のことをいい、東大寺・大安寺・薬師寺などがこれに当たります。
宝筐院は、建立当時から「宝筐院」と呼ばれていたわけではなく、元々の名は「善入寺」といいました。平安の末から鎌倉時代にかけては、数代にわたって皇族が入寺し、住持となりました。
南北朝時代になり、貞和年間(1345~50)から夢窓国師の高弟である黙庵周諭禅師が入寺し、衰退していた寺を復興させ、中興開山となりました。そして、この善入寺にあって門弟の教化を盛んにし、これ以後は臨済宗のお寺となりました。
室町幕府の二代将軍足利義詮(あしかが・よしあきら)は、貞治四年(1365)に母の死去にあいました。その法要の席において、黙庵から経典の講義を聞き、更に参禅問答したことを契機に黙庵に帰依しました。そして、師のために善入寺の伽藍整備に力をいれました。
当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていました。寺の位置は『応永均命図』(室町時代前期の嵯峨地域寺院配置図)によると現在地と変わっていません。
貞治五年(1367)、義詮が没する(38歳)と、善入寺はその菩提寺となりました。そして、八代将軍義政の代になって義詮の院号の宝筐院にちなみ、寺名は宝筐院と改められました。備中・周防などに寺領があり、足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛でした。しかし、応仁の乱以後は、幕府の衰えと共にお寺も衰微してゆきました。寺領も横領されるなど、経済的に困窮していったからです。
江戸時代の宝筐院は天龍寺末寺の小院となり、門の位置は今とは異なり、南に向けて設けられていました。 幕末には廃寺となりましたが、五十数年を経て復興されました。
黙庵は、河内の国の南朝の武将楠木正行(くすのき・まさつら)と相識り、彼に後事を託されていました。
正平三年・貞和四年(1348)正月、正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦って討ち死し(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬りました。後に、この話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒め称え、自分もその傍らに葬るよう頼んだといいます。
明治二十四年(1891)、京都府知事北垣国道は小楠公(楠木正行)の遺跡が人知れず埋もれているのを惜しみ、これを世に知らせるため、首塚の由来を記した石碑『欽忠碑』を建てました。
楠木正行ゆかりの遺跡を護るため、高木龍淵天龍寺管長や神戸の実業家の川崎芳太郎によって、楠木正行の菩提を弔う寺として、宝筐院の再興が行なわれました。
旧境内地を買い戻し、新築や古建築の移築によって伽藍を整え、屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦をもちい、小楠公ゆかりの寺であることをしめしました。
大正五年に完工し、古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像(左の写真)を本尊に迎え、主な什物類も回収され、宝筐院の復興がなりました。その後、更に茶室が移築され、...
Read more