街巡り散歩を繰り返していると資料館に食傷を起こし始めるのは私だけではないかもしれない。けれども外観だけはと思い前まで来てみると玄関は人影がなく左側に開けて沓脱台の頭上にロッカーと書いたプレートが襖を指している。誰もいない玄関にロッカーが押入という不思議さにほんの少し立ち尽くしたかもしれないその時、襖が開き「あっこちらでお願いします」と女性が一歩さがって入室を促した。その快活さと一寸荷物を置きたい気持ちとが重なりすんなり入室し、あーそうかと思いながらも「ロッカーっていうのは?」というと狭い急階段や高さの無い古い戸があるので荷物を置いてもらうのだという、無料の木札のロッカーだった。周囲は小さい売店のようになっていて「260円お願いします」といわれ、そこまではっきりした表示に気付いていなかったので或いはと思っていたがやはり入館は無料ではなかった。 「緒方洪庵って種痘をやった人?」 「ええ」とやや戸惑った返答にパンフレットをわたしながらそれを見て来てよという含みがあるのは明らかで、私もそりゃそうだと苦笑いで振り向くとその部屋から展示は始まっていたが、斜めに見流すように奥へ入った。一階は向こう側に縁と中庭があり畳に座卓と、見渡す範囲では昭和まではこういう家もあったなという印象だった。その縁を右に行ったところに木戸の手洗いがある。入るのはギシッと何か取れてしまわないか注意していたが中はひどくモダンな甕のような便器でこの点は最近見かける史跡でのリフォームと変わらない感じであった。部屋に戻っても依然として一人であって中央の座卓を前に私は胡坐をかきパンフレットを開いた。手ぶらであるし用も足した、あたかも家にいるようにとっくりと読んだ。周囲の実物をよそに適塾について少しずつ解ってきた。つまり今もそうなのだがWeb情報で済ませてしまうのが昨今の常となっていたが紙媒体のやさしさが伝わってくるようでもあり古来の和室の空気がそれと呼応しているようにすらすらとその中に入っていった。読み進むうち大村益次郎、福沢諭吉らそうそうたる塾生の名が挙がって自分の馬鹿さ加減が明らかになるにつれ、これでしっかり実物を見る甲斐があるなどと勝手に得心し立ち上がった。階段まで来ると立ちはだかるそれはほぼ梯子であった。頭を上に出すと背中を一階の天井に擦るように這い上がった。屋根の傾斜が部屋の配置に影響しているのか互い違いの通路的な部屋の並びにかえって趣があった。ツに濁点が時代を感じさせる「ヅーフ部屋」は図書室のように使われ明かりが消えることはなかったという。その角に茶室のにじり口風な間仕切りがあり向うに一段下がって空間が開けている。頭を下げくぐると瞬間的に痛快さと懐かしさとに包まれるようでそこにも展示ケースはあるのだが天井の高さもあり視覚的には翻訳されて単に広間としてそこに立った。「塾生大部屋」と呼ばれているようだが最も目に付いたのは「走り回らないで下さい」という注意書だった。そう私も子供だったら走っていただろうか、いやむしろ走った覚えがあるとさえ思えた。そして今度はこちらからくぐり戸や天井を眺めると中央の柱には刀傷もあるようだ。この部屋も廊下に続くわけでは無く隅に囲炉裏を切るように梯子段がある。登り同様苦労して下るとそこは玄関だった。荷物を取りに襖を開けると係の女性が一人増えていた。 「走らないでって書いてありますね」 「お子さんがみんな走るんです」私は深く頷いた。 「そうでしょう、私も書いてなかったら走ったかもしれない。ところでつまりここは焼けなかったのですね?」 「ええ、この辺は八回も空襲があったそうですけれど…」 「ほーそれはすごい、何かあるのかな」と始末が悪くならないよう引き取った。 靴を履き振り返って壁に同化した梯子段を見た。旅館の広間や寺の方丈等で走る衝動を抑えるようなことは疾うにない。何故ここでは子供心が返るようであったのか、今立っているのは適塾の実物である。建物の思念のようなものがあるのだろうか、塾生の明日を思う闊達さがそこに残っているのか。だとしたら実体験というものはやはり掛替えの無いものだなと思い返していた。ビルの谷に埋もれ...
Read more家庭用電話機、マンションという概念で、旧日本家屋がもつ人との繋がりは一度死んだ。適塾の中を見学すれば、この意味がわかると思う。現代は物質的には遮断され、音と文字情報と電子を通した映像が主に通じ合っているのだ。ここでは幕末のころの家屋の通例と当時の人々がどのように関わってきたのかが、復元されている。柱や梁はほぼ、当時の素材をそのまま活かして復元したそうだ。広い玄関で履物を脱いで襖を開けて始まる世界は、言葉だけで表現することは難しい。 西洋建築の影響を強く受けた現代のマンションや様式家屋からは感じることの出来ない異様な懐かしさがある。見たことがないはずなのに、どこかここには懐かしさを感じる。 ガラスの貼られていない窓、遮断されていない部屋と部屋、二階から見渡せる一階の廊下、玄関を覗くことが出来る「覗くための隙間」などなど… 家庭用電話機の子機、スマホ、トランシーバー、インカム、監視カメラなどなくとも迅速に情報を伝達するための工夫が随所に見ることができた。 階段の両脇に手すりなどない急斜な階段は、貯水タンクや下水道のハシゴを彷彿させる。あっ、と驚く。 両手をしっかり使って階段を上がっていたことを身をもって体験できる二階への入り口は、ここへ来てよかったという喜びを誤魔化せない。 そして二階の部屋は門下生らのためにあったそうだ。この部屋で集まっては熱心に書物を読み、討論したと記録にも残る。それだけでなく、ここで鮮烈な血気を未だにこの目で確かめることができる。12畳ほどの部屋の中央に残る長い柱。そこには、日本刀でチャンバラしたとされる斬痕が何箇所も深々と、ありありと、刻まれている。 当時の人々の活力と、現代人の意志の弱さ・意欲の低さとつい対比してしまう。偏った妄想に過ぎないが、蘭和混合の主屋で繰り広げられる緊張感も、若さゆえに時間となればはっちゃけて羽目外した記録まで残っているのだから、驚く。のちに慶應義塾大学を創設した福沢諭吉の書籍・福翁自伝には詳細に当時の様子が書かれているそうだ。普通科の高校を卒業し、経済学部を専攻した医学と語学に無縁な僕でも、十分な啓発を受け、時を超えて明日への意欲を頂けた。 世のため、人のため、国のためという言葉は、聖人君子や覚者だけのもので無いことも深く確信した。適塾を卒業後、全国に散らばった670余名らののちの活躍を見れば、以下に社会課題に取り組むという経験が、のちに異なる分野においても大きな功績に繋がるのだと改めて教えてくれる。日本語が読めるなら国籍問わず多くの人々に訪れて見てほしい史跡であり観光地だ。 言葉の壁があったとしても玄関で260円さえ支払えば、その肌で幕末の中を生きた日本人の生活観、人格を感じることができる貴重な場所とも言える。 少しだけ脱線することを書くとするなら、この史跡周辺は路面、付近の建物に大正から昭和の頃の建築を見ることが出来、建築に興味がある人にもうってつけのスポット。 最寄駅は...
Read more大阪市中央区にある「適塾(てきじゅく)」を見学してきました。 場所は淀屋橋駅と北浜駅のちょうど中間辺り、瓦葺きの純和風の家屋が近代的な都会の建物やビルの中に残されています。 入口を入ると土間と下駄箱があり、靴を脱いで畳敷きの部屋から向かって右へ入ると小さな受付窓口があります。 こちらで大人270円、高校・大学生140円(中学生以下は無料)を支払うと参観券とパンフレットが手渡されます。 ※ちなみに敵塾を源流に設立された大阪大学の学生さんは無料で観覧できるようです。 受付では荷物は奥にある無料のロッカーに預けられることや、建物内には基本的に空調設備がなく、真夏は特に2階が非常に暑いので...
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